広瀬武の履歴書(4)小学校時代

「クリスマスプレゼントに、僕にもきょうだいがほしい!」

たしかお盆で母の実家の茨城に帰省した時、沢山の親戚がいる中で僕が両親にお願いした。それはいい、とも、だめだとも言わない大人たちの反応に、少し違和感を覚えた。その瞬間を結構鮮明に覚えている。

少し経ってから、一人っ子の期間が長かった僕に待望の妹が生まれた。6つ下の妹。当時は101回目のプロポーズが流行っていて、SAY YESが家のラジカセでよく流れていた。そして妹の名前はチャゲアスの片方からとった。女の子の名前がチャゲだったら一生恨まれると思うが(笑)

その妹が生まれた2年後、今度は8つ下の2人目の妹が生まれた。5月生まれだから、春にちなんだ名前。これは一番下の妹に本当に失礼な話だと思うのだが(苦笑)、母は3人目をまさか妊娠していると思っておらず、そして母は太っていたため妊娠による体形の変化に気づかず、安定期になるまで3人目の妊娠に全く気づかずに「便秘だと思っていた」、と僕が大きくなってから母から聞いた。出産前日はバーベキューをしていて、翌日にまさか子供を出産するとは思っていなかったそうだ。母は強い。※今では母になった妹達もこの話は知っている。

母と、2人の妹と、僕↓

3人兄妹それぞれが大きくなってからはさすがに落ち着いたものの、僕が一人っ子ないし妹達が小さかった頃は、今振り返ると祖父、祖母、両親は僕を溺愛していたのだと思う。祖父と祖母は買ったばかりのスバル・レガシィで色々なところに連れて行ってくれた。初めての子供、長男、初めての孫なので欲しいものは何でも買ってくれた。家にあるテレビは当時珍しい42型で、同じ大きさの箱型テレビは小学校の視聴覚室でしか見たことがなかった。ミニ四駆が流行った時は、家にサーキットを置きたいと言えば大きなサーキットを丸ごと買ってくれた。夏と冬は毎シーズン家族皆で旅行に行った。良い時代だ。

僕は早起きだったため、朝食は祖父、祖母と一緒に食べることが多かった。お世辞にも決して料理が上手くない祖母は、これでもか、これでもかと僕に食事を作ってくれた。随分後になって妻から異常だと指摘されたのが、広瀬家の卵焼きだ(くるくる丸めていないので、これはオムレツと言うのかもしれない)。1つの卵焼きに卵を7こ使うのが常識で、それを僕一人で食べていた。小学校高学年になる頃には量が足りず、1パック全ての卵を1つの卵焼きに使い、それを僕一人で食べていた。

母も母でよく食べる人だったので、フルーチェを1パック1人分として、ラーメンどんぶりで作り、子供たちのおやつとして出していた。本当は1パックで大人4人分だ。大人になってから妻に教えてもらった。マクドナルドでテイクアウトして家で食べる時は、僕はビックマックのバリューセットを1人で2セット食べた。勿論ポテトもドリンクもLサイズ。

家で茹でるパスタは1袋1人前だと思っていた。パスタに関しても、ちょっとお前の家変だぞと僕の家でパスタを食べた友達に教えてもらった。そして白米は、炊飯ジャーが何故か家に2つあり、どちらか片方には必ず保温状態のご飯が入っていたので、常に温かいご飯を食べることが出来た。

僕はとにかく沢山食べたのだ。

そして少年は見事に太った。小学校の健康診断結果は毎回「肥満気味」ではなく「肥満」。体重は成長曲線のはるか上をプロットしていた。ただ、太っていても運動することは好きだった。動けるデブ。いや、鉄棒の逆上がりは6年間一度も出来なかったので、単によく動くデブと言ったほうが正しい。そして、よく動くのに実際はすごく太っていて、思ったように体が動かないからなのか、小学校時代は大ケガを繰り返した。

小学校2年生の冬、家族皆で苗場プリンスホテルに2泊3日でスキーに行った。初日、父と2人で滑っていた時、前を滑る他人にぶつかりそうになり避けた拍子にズッコケた。…右足が、右足が全く動かない。全く動けない僕に苛立ちながら、父は僕を背負いつつ両手でストックを握り、おんぶして下まで滑った。というか、この時点でレスキューを呼べばよかった。

ホテルの部屋に着いてからが地獄だった。痛くて話すことすら出来ない。当然、楽しみにしていたホテルディナーも僕はパス。2日目の早朝、阪神大震災が起きた。テレビはどのチャンネルも倒れた高速道路を映していた。いやいやごめん、それどころではない、自分の足の痛みのほうが深刻だ。と思っていた矢先に、まだ赤ちゃんだった真ん中の妹が右足の上に乗っかってきた。激痛でその後立川に帰るまでの記憶が殆どない。唯一、ホテルの部屋で父からすごく怒られたことだけは覚えている。せっかく皆でスキーに来たのに、お前はいつまで泣いているんだ、と。

立川の家に着いた頃には、僕の右足はパンパンに膨らみ、急いで近くの整形外科に両親と一緒に行った。レントゲンを撮ったら、右足のすねの骨が粉々になっていた。どうしてすぐ病院に行かなかったのだと、父は僕の目の前で先生からこっぴどく怒られた。この件は父も本当に悪かったと思ったのか、僕の結婚式2次会のサプライズで渡してくれた父からの手紙にも、あの時はごめんと書いてあった。

2回目の大ケガは小学校4年生の秋、体育の授業で走高跳をしている時に起きた。背面跳びも出来ない小学生の走高跳で、一体どうやって跳べば大ケガするのだと思うだろう。スーパーマンのように、ただ真っすぐ前に跳んだだけで右肘を複雑骨折した。自分はもっと高く跳べると思ったのだろう、しかし実際は自分の体が思っている以上に重くて宙に浮かなかった。そして空中でバランスを崩してしまい、右手1本で全ての体重を支えながら緑色のマットに落下した際、右肘の骨が僕だけには聞こえる音を体内でゴリゴリゴリと出しながら粉砕した。明らかにおかしい方向に右腕が曲がっているのを先生が見てすぐに救急車。校庭に救急車が入ってきたので、周りが騒然としているのが運ばれながら分かった。

これはかなりの重症だろうという判断で、搬送先は出来たばかりの国立災害医療センターだった。痛いとは言え意識はまあまあ有り、病院到着後に様々な検査を受けた。ここでデブならではの悲劇が起こるのだが、看護師の方が血液を採ろうとしても肉が厚くて血管が見えづらく、何回も注射針を刺し直した。正直なところこっちのほうが痛かった。何度やっても上手く血液が採れず、結局最後は脈拍を測る時に指を当てる手首付近に針を刺した。これ、すごく痛かった。

診察の結果そのまま即入院。翌朝手術の予定になった。右手はパンパンに膨れ上がり、その日は右手を吊り上げてベッドで寝ることに。当然トイレにも行けない。手術前日でもある入院初日の夜、若い女性の看護師さんが尿瓶を持ってやってきた。とても恥ずかしいが自分一人で用を足せないのだから仕方ない、生まれて初めての尿瓶。と思ったら、明日手術だから続いて今度は浣腸をすると。???一体何をするんだと理解出来ない僕をよそに、すぐ出そうになってもちょっと我慢しろとの説明を受けながら手際よく進んだ。下腹部が猛烈に熱くなるような感覚が襲ってきて、自分ではコントロール出来ない力が働き生まれて初めての浣腸が終わった。体の中にはいつもこんなに「物」が残っているのか!と感動した。

翌朝、ベッドに寝ながら手術室に運ばれる。父はその場にいたか覚えていないが、母は心配そうにずっと横を歩いてついてきてくれた。手術室には緑色の服を着た沢山の人が待っていた。全身麻酔の説明を受け、鼻に透明の何かを被せた。目の上にある大きなライトがパッとついた瞬間、次に目を覚ましたのは自分の病室のベッドの上だった。手術は既に終わっていて夕方前になっていた。全身麻酔はすごい。僕の右腕はガチガチにギプスで固定されていた。前回の右足同様、またギプスか…内側が痒くなるのを想像するだけで萎えた。

その後、2週間ほど入院した。自分の体内に金属(ボルト)が入っていると思うと気持ち悪いが、手術後は三角巾をしながら割と普通に生活出来た。小児病棟の同じ病室には、同じくらいの年齢の小学生の子が何人かいてすぐに話すようになった。そのうちの1人の女の子は白血病で、いつもパジャマを着ていて頭に帽子を被っていた。昼間は明るく笑顔が印象的な子だったが、体調が悪い時は本当に辛そうだった。子供は純粋だから、どうすればこの子の病気は治るのか、皆で外で一緒に遊べないのか、この子のお母さんに僕は聞いた記憶がある。この子の病気は簡単には治らなくて、治すために今度私の背中に注射をして、注射で採ったものをこの子に移す予定なの、治ったら遊んであげてね、とお母さんは言った。背中に注射するのは痛そうだなと思いながら、世の中にはこういう病気があることを知った。

退院近くになると僕も入院生活に飽きてきた。ある日、いつどこで知り合ったのか覚えていないのだが、同じく入院中の優しい大人の男の人と仲良くなった。この人は病院の最上階にあるレストランに連れて行ってくれた。よく食べる僕を見て、じゃあ今度は病院を2人で抜け出し駅前の伊勢丹にご飯を食べに行こうという作戦になった。作戦当日、小児病棟から僕が突然いなくなり病院は騒然とした(はず)。当然ながらその時は携帯電話なんて持っておらず、外を2人で歩いているところをたまたま祖母が見かけて、2人とも病院に連れ戻された。男の人は病院の人にとても怒られていた。僕も母から知らない人についていくな、そもそも病院を勝手に抜け出すなとこっぴどく怒られ泣いた。しばらくして無事に退院した。

3回目の大ケガは小学校5年生の春。お前はまた大ケガをしたのかと呆れると思う。小学校の昼休みの時間に、僕は友達と竹馬で遊んでいた。観察池の隣に小さな山、というか丘があった。大きな木が生えていて涼しく、百葉箱はこの丘の麓にあった。丘の頂上には、大先輩達が埋めたタイムカプセルの分厚い銅製記念プレートが設置されていた。この下にタイムカプセルが埋まっているらしい。僕は何故か、竹馬に乗りながらこのプレートを跨いでみたくなった。そして運悪いことに跨ぐ瞬間に竹馬から転倒してしまい、銅製プレートが右足のふくらはぎに刺さった、というか深く刺さり過ぎて肉をえぐるような感じになってしまった。また校庭に救急車だ。昼休み中だから校内は騒然。当時、保健室の先生は油田先生という方だったが、またお前かと絶句していた。後から聞いた話だが、その時一緒に竹馬で遊んでいた男の友達はグロすぎるものを見て失神寸前のやつもいたり、気持ち悪くなってしまい保健室に運ばれるやつもいたそうだ。

当の僕は、三度目の大ケガ、二度目の救急車で耐性がついたのか、とても落ち着いていた。傷は深過ぎると血すら出てこないことをこの時知った。出てくるのは透明の体液と、ウニのような自分の脂肪。今度の手術は局部麻酔で意識があった。傷が深く、肉の内部で10数針、外の皮膚で10数針、合計20針以上縫う大手術だった。35歳になった今でも、右足にはこの傷が残っている。

このように、小学校時代は大ケガばかりしていた僕だが、小学校6年生の時に生徒会長(児童会会長)になった。何故なったのか、自ら進んで立候補したのか、他薦だったのかすら覚えていないが、気づいたらなってしまっていた。運動会等での会長の挨拶は緊張したが嫌いではなかった。会長としての仕事はそつなくこなしたと思う。ただ、その生徒会長のクラスが学級崩壊を起こしており、学校で一番の問題になっていた。

僕のクラスには、日本人とアメリカ人のハーフの男の同級生がいた。髪の色も目の色も違う人間は、子供からすれば無意識に脅威を覚えたのかもしれない。1対複数で暴力を振るうようなことはしなかったが、その子をからかってしまうことは多々あった。大人になった今思えば、TシャツのUネック部分を頻繁に噛んでしまう癖も、爪を噛んでしまう癖も、何か気に入らないことがあると相手に噛みついてしまう癖も、あの子の癖は何か精神的な部分に問題があったのかもしれない。学活の時間では、この子について話し合いすることがしばしばあり、紛糾した際に一度だけ、授業時間中にこの子が走って小学校を抜け出したことがあった。クラス総出で追いかけるという、金八先生のようなシーン。もう一度会えるなら、あの時は分かってやれなくてごめんと謝りたい。

小学校高学年になる頃には、思春期に片足を突っ込んでいた。同じクラスの女子を好きになることはなかったが、恋愛というものに興味を持ち始めた。夏、僕の家族と、僕と一番年の近い従姉と(近いとは言っても8つ年上だが)、その従姉の女友達と式根島に旅行に行った。当時、従姉はオスカープロモーションに入り、その連れてきた女友達ともう1人の3人で3人組ユニットのアイドル活動をしていた。どれだけ売れたのかは分からないが、フジテレビのとんねるずの番組に登場した従姉をテレビで一度観たことがあった。要はグラビアアイドルと常夏の島に行くようなものだ。調子の良い父は張り切っていた。

従姉は小さい頃から見てきたので、ああアイドルやってるんだなとしか思わなかったが、一緒に来た友達がとても綺麗に映った。年上の女性はなんと美しいのだろう。小学生から見た年上なのでまだ二十歳前後なのだが。恋心とはまでは言わずとも、その水着姿は少年の心に強く焼き付いた。少年マガジンの表紙と一緒に旅行に来ているようなものなんだから当然だ。

もし将来結婚するなら、奥さんは控え目でしっかり者タイプがいいな、なんてことも想像していた。セーラームーンの登場人物で言えば、セーラーマーキュリー(青)のような、主人公を隣で支えるしっかり者で賢い女の子がいい。主人公が彼女だと、わがままでうるさくて振り回されて疲れそうだから嫌(笑)

世は月9ドラマの黄金期を迎えていた。ロングバケーション、ビーチボーイズと大作が続いた。そしてリアルではないテレビ上で僕は初恋の相手をついに見つけた。稲森いずみ。この人こそ、まさに理想の女性だと勝手に確信した。テレビで観る稲森いずみの性格は、役によって決まり役によって変わるのだが。稲森いずみ本人と結婚することは無理でも、似ている人をまずは彼女にしようと思った。でも、こんなに太っている自分に、そもそも彼女は出来るのだろうか。そんな疑問を抱えながら、生徒会長として答辞を述べて僕は小学校を卒業した。

続く

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