母の友人に、ソバージュの髪型に小麦色の肌が印象的な「山口さん」という女性がいた。
山口さんの自宅にはメダカの飼育池があり、そのメダカを分けてくれた。2リットルのペットボトルの下半分を切り取り水を入れ、ピンポン玉サイズの酸素の出る球を入れ、あと水草も。山口さんは「モノレール」という乗り物の会社で働いており、熱意を込めてそのモノレールについて説明してくれた。
「立川にはね、将来モノレールが通るんだよ!」
ある日、山口さんが車で開通予定の場所に連れて行ってくれた。今振り返ると、あそこは上北台方面だったのか、高幡不動方面だったのか分からない。ただ、周りに何もないところに初めて見るような大きな柱がポツン、ポツンと数本突っ立っていた。
なんだ、乗り物が無いじゃないか。落胆。この柱の上をいつか電車のような乗り物が走るそうだ。でも、今はまだ何の使い道も無いような柱しかない。きっと何十年後の話なんだろうな、少年の好奇心は萎んだ。
ただ、この山口さんからモノレールの話を聞いた頃、おそらく僕が幼稚園年長、小学校1年生の頃、立川という街は突然変わり始めた。子供の目にはそう映った。たましん(多摩信用金庫の旧本店)の裏に、大きなビルがこれから沢山出来るらしい。噴水の出る公園も出来て、駅ビルはルミネというものになった。
駅前の銀行も移転し次第に無くなり工事が始まった。看板が印象的な長崎屋が無くなった。今まで行っていた高松町のものとは比べほどにならないくらい大きな図書館が出来た。パレスホテルという大きなホテルも出来た。日に日に僕の街が変わってゆく。
色々知ってから振り返ると、ああ、だからなんだと分かるのだが、立川という街が成長するにつれて、テレビで見たことのある有名な政治家が選挙の時に街頭演説に来るようになった。立川は、もしも大規模な自然災害で都心の中枢機能がダメになってしまった時の替わりの場所なんだ、と。
事実、駅と昭和記念公園の間に国立災害医療センターという国の大規模な病院が出来た(出来てすぐ世話になるのだが苦笑)。その病院の少し先に完成した消防署は東京都のレスキューの精鋭部隊なんだと小学校で習った。地下で繋がるトンネルもあるらしい、そんな都市伝説もあった。そんなこんなの発展には、政治家という人達が関与しているのだと大きくなってから分かった。
祖父の自衛隊時代の親友が、自民党系のベテラン市議会議員だったこともあり、広瀬家は自民党一色。祖母は自民党婦人会?のメンバーで、家の外壁にはいつもこの祖父の親友のポスターが貼られていた。そしてコネ採用だった可能性が極めて高いのだが、家の近くに曙福祉会館という施設が出来た際、市の職員でも議員OBでもないのに何故か僕の祖父が館長になった。
僕はこの祖父の親友が家に遊びに来る日が嫌だった。こちらは何の用もないのに、ご挨拶しなさいと祖父に呼び出され必ず部屋から引っ張り出されるから。そしていざ対面すると声がデカいし偉そうに振る舞う態度も好きになれなかった。美味しい手土産は有難くもらうけれども。
祖母に連れられて自民党の集会にも何度か行った。出来たばかりのパレスホテル。学生結婚で10代の頃に僕の父を出産しているため周りの婦人と比べると祖母は若く、とにかく派手好きなので目立った。私はまだこんなに若いのに小学生の「孫」がいるのよ。僕を連れて行くのも、周りに見せつける一種のアクセサリーだったのかもしれない。集まった政治家のおっさん、おばさん共にお酒が進むとデレデレして、子供としてはあまり面白くなかった。
祖父と祖母を通じた政治家の印象は良くなかったが、政治家と政治にはちょっと興味を持った。何も無かったこの街を変えたのは誰なんだろう?ふむふむ、街のことは国会議事堂の中で決めるのではなくて、立川の市長さんが決めるのか。戦争に負けた後、日本全体も何も無いところからこんな大きな国になったのか。政治家ってすごいんだな。戦後復興した日本と、急成長した立川の街並を重ねて思いを馳せた。
たしか小学校2年生ぐらいの頃、初めて日本国憲法の解説書を読んだ。勉強熱心だったわけではなくこれは偶然の産物なのだが、「おたけ(当時の僕のあだ名)!学校の図書館に大人の女の人の裸の写真が載っている本があった!」と図書館ヘビーユーザーの同級生から教えてもらい、その本がこの日本国憲法の本だった。
エロス云々ではなく、人間、家族という表現として父、母、子供が全員裸体で写っていた。本自体の内容は難し過ぎて、この本の存在を教えてくれた同級生も僕も理解出来ないのだが、どうやらすごく重要なことが書いてあるんだということは理解した。
この本は冒頭に「国民の象徴」ということについてやたらと書かれていて、結局象徴ってどういう意味やねん、天皇様ってじゃあなんやねん、という漠然とした疑問を少年の心の中に残し、後ろのほうのページまで読む気にはなれず、そっと本棚に戻した。
そして今思えばこの本の陳列は秀逸だなと思うのだが、この日本国憲法の本の並びには、「はだしのゲン」や日本の歴史漫画、偉人の漫画が並んでいることにその時気づき、この歴史漫画を読むことにハマりにハマった。
その中でも特にハマったのが豊臣秀吉だった。針を売るところから始まり、草履を温めたり、もう色んなことがあって、最後は天下を統一して死ぬ。「浪速のことも夢のまた夢」、ああ素敵な人生だな、この人も今でいえば政治家なんだな、こういう政治家になってみたいなと憧れた。
そうこうしているうちに、立川には本当にモノレールが走りそうだという機運になり、たましんの裏にはファーレ立川として大きなビルが立ち並んだ。
そして祖父は膵臓がん、最期は胃がんを患い、曽祖母の時は夜中だったので立ち会えなかった「人が息を引き取る最後の瞬間」を初めて見届けた。悲しい気持ちもあるが、闘病に苦しみ顔が真っ黄色になる祖父を見てきたので、これはこれでよかったのかなという気持ちのほうが強かった。祖母も父も悲しみに打ちひしがれるという感じではなかった。
祖父の生前の願いで、葬式は自宅で執り行われた。葬式ホールで行うことを自宅でやるのだから家族総出。有難いことに町内会の方々も役員総出でお手伝いしてくださった。
自宅前の公道をお通夜の時間帯は完全に通行止めにして、車両は一切入れないよう封鎖し、道路上に町内会の祭りの時に使う大きなテントを張り、そこに通夜振る舞いの食事とお酒を並べた。こんな歩行者天国のような道路の使い方は今は絶対出来ないだろう。平成初期は世の中にユルさがあった気がする。
壇には、家族一同の他、立川市の青木市長からも大きなお花がお供えされていた。そして市長はじめ市議会議員の方々が焼香に駆け付けてくださった。酒を飲んでくっちゃべる大人達とは違い、スーツをビシッと着て、サッと来てサッと帰っていった。この姿がとても格好良かった。俺も将来、市長になりたい。そんなことを思った少年の1日だった。
続く