第1話:〜競売寸前物件とふしぎな先輩編〜

  第1話:〜競売寸前物件とふしぎな先輩編〜

先輩社員に憧れを持ち、夢と希望に胸を膨らませていた笛木は、ある時先輩から競売寸前の炎上案件を任される。物件の持ち主である老夫婦のためにもどうにか売却を成功させようと奮闘するが、度重なるトラブルで絶体絶命の状況へ。追い込まれた笛木に訪れた衝撃の結末とは?

あやこあにぃ
【執筆・監修】あやこあにぃ

かつては測量コンサルタントで地図を作っていたが、文章で食べていく夢を叶えようと決意。Webライター&作家に転身し、インタビュー記事やコラム記事のほか、小説も執筆。主な受賞歴に、公募ガイド「小説でもどうぞ」第18回佳作、第9回ブックショートアワード12月期優秀賞など。

【保有資格】測量士
女性客
「私はもっと広い部屋がいいのっ!」
男性客
「バカ言うなよ、1LDKで十分だろ!!」


初夏の日差しが差し込む営業所。テーブル越しに並ぶカップルと対峙する先輩の横で、僕はひたすら小さくなっていた。


女性客
「ちょっとくらい譲ってくれたっていいじゃない!」
男性客
「はぁ?! 理由もなく高い部屋なんか借りられないだろ?!」


かれこれ半時間ほど、この2人はものすごい剣幕でケンカをしている。

もうホント無理、こういう客が来たときは心底この仕事が嫌になる。今は研修中だし、先輩についているからまだいいけど、独り立ちした後のことを考えたら寒気がする……。


ウンザリと手元の書類を意味もなくペラペラめくっていると、営業所内に別のお客さんが入ってきた。先輩がわざとらしく時計を見て、助かったとばかりに、いらっしゃいませぇー! と声を上げる。


先輩
「笛木」
笛木
「はい」
先輩
「俺、これから別のお客様の対応をしないといけないから。あとはよろしく」
笛木
「えぇっ?!」
先輩
「申し訳ございません、今井様。ここからは、この笛木が担当いたしますので」


深々と頭を下げ、それまで一歩離れて後ろに座っていた僕の椅子を全面に押し出すと、先輩はスタコラと隣のブースに行ってしまった……!

そ、そんな!!

僕は大いに困惑したが、カップルのほうは担当が変わったことなど全く気にしていない様子だ。



女性客
「なんでそんなに頑固なのよ!」
男性客
「頑固なのはお前だろ!!」

他のお客さんの視線が痛い。すみません、うるさいですよね。



笛木
「あのぉ〜」
男性客
「なんだよ」
笛木
「そろそろ決めていただけると……」
女性客
「じゃあ、営業さんはどう思う?」
笛木
「えっ」
女性客
「2LDKよね?!」
男性客
「1LDKだよな?!」

ものすごい形相で尋ねられ、思わずヒィッと声を上げてしまった。

知らないよ! っていうか、それくらい決めてこいっての!

心の中で盛大に突っ込みつつ、たまらずそーっと席を立つ。


笛木
「ちょっと、書類をコピーしてきますね〜」

後ずさりで事務所に引っ込むと、2人は再び睨み合いを始めた……。



僕、笛木友也(ふえきともや)は、花枝不動産に入社してまだ3カ月の新人営業マンだ。


就職活動中にこの会社の採用ページに載っていた先輩社員の接客エピソードに感動し、入社を決めた。でも、「あんなふうになりたい!」と夢と希望に胸膨らませていたのは、正直、新入社員研修期間までだった。実際に営業所へ配属され、接客業務を始めてみると、書類の山や膨大な手続きに悩まされるなんて日常茶飯事だし、面倒な客に捕まった日にはこの世のすべてを呪いたくなるし……。


なんか思ってたのと違うというのが正直な所感。根性なしと言われればそれまでだけど、入社前の会社への期待がものすごく大きかっただけに、僕はこの営業所に配属されて数週間にして、すでに仕事を辞めたくなっていた。


田崎
「あそこに座ってるの、きみのお客さん?」

事務所内のコピー機の前でぼんやりしていると、突然背後から話しかけられた。



慌てて振り返ると、人の良さそうな男の人が、興味津々な様子で立っている。スーツこそピシッと着ているものの、少しぼんやりした感じで、営業マンではなさそうだ。本社の事務職の人だろうか。でもなんで、こんなところに……?


僕の困惑を察してか、その人は、ごめんごめん、と内ポケットに手をやる。


田崎
「申し遅れました、僕、こういう者です」

渡された名刺には、『業務管理部 田崎幸治(たさきこうじ)』とあった。



入社したときにもらった会社の組織図を頭に浮かべる。業務管理部といえば、確か社内の雑用係。定年後の窓際族のための部署だったはず……。でも、田崎さんはどう見ても30代後半くらいだ。そこに配属されるにしては若すぎる。ということはつまり、よっぽど仕事ができないってことか……。


いろいろと察した僕の様子に構わず、田崎さんは本社から届けにきたらしい郵便物の束を小脇に抱え直し、ガラス張りのパーテーション越しに、再びあのカップルへ視線をやった。


田崎
「なんかめちゃくちゃケンカしてるね、あのふたり。大丈夫?」

自分の客のことを教える義理はなかったけれど、いちおう先輩だしな……。

僕はしぶしぶ答えた。


笛木
「女の人のほうは2LDKがいいって言ってるんですけど、男の人は1LDKで十分だって怒ってるんです」
田崎
「ふーん」

田崎さんはカップルを見やったまま、興味深げに自分の顎に手をやった。


田崎
「理由は聞いた?」
笛木
「それが、よくわかんなくて。彼女さんのほうが突然言い出したらしいんですけど」
田崎
「なるほどね」

なにが「なるほど」なのか全然わからない。困惑する僕に田崎さんは視線を戻す。


田崎
「部屋探しの条件はいっぱいあるけど、不要な広さでは探さないよね普通。だって家賃が上がるんだからさ」
笛木
「まぁそれは……そうですね」
田崎
「彼女さんには絶対なにか理由があるはずだ。まずは、よーく観察してみることだね」

観察? なにを?


思わず眉間にシワを寄せるが、田崎さんはそれ以上なにも言わず、「じゃ」と手を挙げて事務所から出て行ってしまった……。



しばらくしてカップルのところへ戻ると、彼氏さんはトイレに立っていた。ひとり残された彼女さんは、さっき僕がプリントした2LDKの部屋の間取り図に視線を落としている。


笛木
「飲み物、取り替えますね」

なんだかぽつんと座っている姿が寂しそうで忍びなくて、新しいコーヒーをプラスチックのお盆に乗せて背後から近づいた。ふと、さっき田崎さんに言われたことを思い出す。


観察。名探偵じゃあるまいし、限界がある。サラッと適当なことを言うんだから。


心の中で悪態をつきつつ、いちおう、彼女さんの頭のてっぺんからつま先までサッと視線を送ってみた。紙コップホルダーのコップを、新しいものと交換していると、カバンが目に入る。彼女さんの背中と背もたれの間に置かれた小さな手提げカバン。



次の瞬間、


笛木
「あ、」

思わず声を上げてしまった。彼女さんが、不機嫌に僕を見上げる。


女性客
「なにか」
笛木
「い、いえ、すみません」

一礼してカウンターの中へ戻り、田崎さんの言葉を反芻した。


——彼女さんには絶対なにか理由があるはずだ。


もしかして、この人が広い家を希望している理由って……?



なおもケンカを続ける2人を車に乗せて、僕は外へ出た。彼氏さんが希望した、1LDKの部屋の内見だ。本当なら営業所の先輩とふたりで対応すべきところだけど、仕方がない。


男性客
「やっぱこれくらいの広さで十分だろ」

3人で部屋に入ると、彼氏さんがダイニングの中央で手を広げた。

しかし、少し離れたところに立ち、両手の拳を握りしめた彼女さんは、絞り出すように言った。


女性客
「やだ、狭すぎる」

バンッ!

鈍い音が室内に響く。彼氏さんが、ペットボトルのお茶を勢いよくキッチンのカウンターに叩きつけた音だった。


男性客
「ホントなんなの? ついこの間までお前も、1LDKの部屋でいいよねって言ってたじゃん」
女性客
「だって」

彼女さんは、唇を噛み締めて黙り込んだ。空っぽの部屋の中に、イヤな空気が流れる——。


普段だったら、ひたすら息を殺してほとぼりが冷めるのを待つばかりだったかもしれない。でも、今日の僕は違った。


そーっと、ふたりの間に割って入る。



笛木
「あのぅ。お聞きしたいことがあるんですけど」

彼女さんに顔を向けると、「なに?」と首をかしげる。その目をまっすぐ見つめ返したものの、やっぱり迷った。僕なんかが言ってもいいのだろうか……。


笛木
「間違いだったらすみません……、でも、その」
男性客
「なんだよ、ハッキリ言えよ」

苛立つ彼氏さんの横で、彼女さんがなにかを察したように身じろぎした。続いて、おへそあたりに手を当てる。その表情に後押しされて、僕はついに言った。


笛木
「お子さんが……、お子さんが、いらっしゃいますよね……? お腹に」

一瞬、部屋の中にさっきとは別の種類の沈黙が漂う。一拍置いて、


男性客
「オコサン?!」

彼氏さんが素っ頓狂な声を上げた。


男性客
「ちょ、美恵、あの、えっと、……マジか?」

ガシッ!! と両肩を掴まれた彼女さんの両目が潤む。俯いて視線を右へ左へと泳がせると、唇を引き結んだまま、こくんと頷いた。


男性客
「うおーっ!」

部屋に彼氏さんの雄叫びが響く。



男性客
「なんで! なんでそんな大事なこと言わないんだよ!」
女性客
「ごめんなさい……。つい数日前にわかって、私もまだ実感がなくて……言い出すタイミング、見失っちゃったの」
男性客
「え、ちょっと、どうしよう。俺、父親? あ、その前にちゃんと入籍……! いや、ご両親にご挨拶……!!」
女性客
「もう。慌てすぎだよ」

彼女さんは目尻を拭い、僕に視線を向けて小さく笑った。


僕は人差し指で頬をかきながら、


笛木
「すみません、差し出がましいことを……。さっき、カバンの中に母子手帳が入ってるのが見えちゃって……」

手元のバインダーに挟んだ資料に視線を落とす。


笛木
「でも、最初にご登録いただいたご家族情報には2名とあったので、もしかしたらおふたりの間で認識のズレがあるんじゃないかなぁと思ったんです」
男性客
「営業さん、……じゃなくて、笛木さん」

彼氏さんが、真面目な顔で僕のほうへ向き直る。


男性客
「俺たち3人のために……、2LDK以上の広さの部屋を、もう一度探してもらえませんか?」
笛木
「はい! もちろん!」

彼氏さんの申し出に、僕は笑顔で頷いたのだった。





所長
「笛木、やったな!」
笛木
「ひゃい!」


翌朝。朝礼で所長に思いっきり肩を叩かれ、思わず変な声を出してしまった。


所長
「笛木が初契約を取ったぞ! みんな拍手!」

この人に褒められたのなんか、いつぶりだろう。配属されたばかりのころ、所長が床に落としたペンを拾ったときくらいじゃないか……?


所長
「油断せず、今後も頑張るようにな」
笛木
「はい!」

褒められたのが久しぶりすぎて、ふわふわした気持ちでデスクに戻る。と、社用のスマホが鳴った。ポケットから取り出すと、画面に【本社 人事部】と表示されている。えっ、なんだろう、なにか悪いことでもしただろうか?!


笛木
「もし……もし……」

恐る恐る電話に出ると……。



田崎
「やぁやぁ笛木くん」
笛木
「た、田崎さん?! なんで僕の番号知って……というか、なんで人事部の番号からかけてくるんですか!」
田崎
「あー、びっくりさせちゃったかな。ちょっと思いついて電話を借りたんだよね」

他部署の電話を借りるとか、それどういう状況ですか……! いや、この人ならありえる、なにしろ日々社内をウロついているんだろうから……!

僕は、この営業所に来たときに郵便物の束を抱えていた田崎さんの姿を思い出してため息をついた。


田崎
「そういえば、初契約らしいね笛木くん」
笛木
「えっ、なぜそれを」
田崎
「昨日はあんなに困ってたみたいだったのに。カップルのケンカは、解決したんだね?」
笛木
「あっ、はい」

田崎さんが、電話の向こうでクスリと笑う。

今の今まで忘れていたけど、契約が取れたのは田崎さんの助言があったからでもあるんだ。僕は電話越しに頭を下げた。


笛木
「アドバイス、ありがとうございました」
田崎
「いやいや、僕はなにもしてないよ。それにしてもキミ、素質あるよ、笛木くん」
笛木
「そ、素質……?」

思わず声が震える。そんなことを言われたのは初めてだった。所長に褒められた件といい、明日は槍でも降るんだろうか。


一瞬舞い上がりそうになるが、いやいや待てと気持ちを沈める。

そもそも、田崎さんは僕の成績なんか全然知らないだろうからそんなことを軽く言うんだ。それに、正直なところ、業務管理部の得体の知れない人に言われたって、僕としては困惑するばかりだ。


いろいろ考えた上で、とりあえず軽くお礼を言うと、田崎さんは嬉しそうに続けた。


田崎
「ちなみに、今日の夜、空いてる?」
笛木
「今日ですか? 今日はちょっと……」

今夜の予定はついさっき決まったばかりだった。初契約祝いだと先輩に飲みに誘われたのだ。


田崎
「じゃあ明日でもいいよ。駅前に美味しいおでんの店があるんだよね。飲みに行こう」

2日連続飲み会なんて、正直ちょっと気が進まなかった。

でも、このタイミングで田崎さんとお酒の席を共にしたことが、のちの運命を大きく変えることになるなんて……、このときの僕は、夢にも思っていなかった。



指定された店『割烹 おた恵』は、会社から歩いて5分ほどの、ビジネス街を抜けた路地裏にあった。


田崎
「笛木くん、こっちこっち!」

15分前行動を心がけたはずなのに、田崎さんはすでに一番端のカウンター席を陣取っていた。


笛木
「すみません、お待たせしました」
田崎
「大丈夫、全然待たずに始めちゃってるから」

その言葉通り、カウンターには小鉢に入った食べさしの料理がいくつか並んでいる。いったいいつからいるんだこの人。


田崎
「笛木くん、いける口? まずは生中でいい?」

隣に座ると、田崎さんは、うきうきと2人分のビールを注文して、あとは好きなもの頼みなよ、とメニューを渡してくれた。



田崎
「いやぁ、誰かと飲むのなんて久しぶりだから嬉しいよ」
笛木
「いつもおひとりなんですか? 部署の飲み会とかは」
田崎
「ないない。そもそも僕、社内でも嫌われてるからさ」

どういうことだろう。首をかしげたところに注文したビールと追加の料理がやってきた。乾杯、と合わせたジョッキを、田崎さんは上機嫌で飲み干す。強そうで羨ましい。僕はちびちびとなめるように、白い泡に口をつけた。


田崎
「ところで」

田崎さんは、自分で追加のビールを注文してから、僕に向き直った。


田崎
「笛木くんさ、仕事楽しい?」
笛木
「げほっ」

突然の確信をついた質問に、ビールを喉に詰まらせる。


笛木
「なんですか急にっ」
田崎
「いつも営業所で死にそうな顔をしてるなと思って」
笛木
「え? いつも?」
田崎
「あまりにも死相が出てるから、きみがあの営業所に配属されたときから気になってたんだよね。話しかけたのはこの前が初めてだったけど」
笛木
「死相」
田崎
「で、どうなの。楽しいの楽しくないの」

僕は、普段の業務内容に頭を巡らせた。カップルの件といい、なんといい……。


笛木
「あー、正直、楽しくないです……」
田崎
「まぁそうだろうね。素直でよろしい」
笛木
「ポスティングとか、めんどいなって思っちゃうんですよね……昭和かよって感じで」
田崎
「そうか。昭和か」

田崎さんは、ハハハと笑って、この店の名物だというおでんの盛り合わせの皿から、こんにゃくをヒョイと取り上げた。


田崎
「まぁその昭和な行いが、明日の新時代を切り開くかもしれないんだけどね」
笛木
「でも、先日の初契約のときは、久しぶりに嬉しかったです」
田崎
「よかったなぁ。僕の仕事は、不動産業界のファンを増やすことだからね」
笛木
「ファン、ですか」

うん、とうなずく田崎さんがおでんの皿を僕のほうへ押しやるので、大根を取った。取り皿の上で、ふわっと上がった湯気が、いいにおいをまとって鼻腔をくすぐる。口に運ぶと、じゅわっとダシが広がった。美味い。昨日の飲み会で荒れた胃にしみわたる。


田崎
「なんで笛木くんは、花枝不動産に入ったの?」

しばらく黙々とおでんに舌鼓を打っていると、田崎さんが聞いた。


笛木
「憧れの先輩がいて……」
田崎
「お? 僕のことかな?」

なんでそうなるんだ。僕は愛想笑いを浮かべつつ、あのときの感動に思いを馳せる。


笛木
「就活を始めたばかりのころ、この会社の採用ページを見たんです。そうしたら、先輩の仕事エピソードが載っていて。それを読んだら感動しちゃって……」
田崎
「へぇ」
笛木
「お客さんとの向き合い方とか、仕事に対する姿勢とか、すごくカッコいいなと思ったんですよね。それで、不動産とか営業職とか全く興味なかったんですけど、この会社に入ろうと決めたんです。他社も受けず、一発勝負で……」
田崎
「意外と度胸あるなぁ、笛木くん。で、その先輩には会えたの?」
笛木
「いや、まだ……確か、別の営業所の人だったと思うんですけど。あんな先輩になりたいって、入社のときは希望に胸をふくらませていたのに……」

そっかぁ、と田崎さんは言いながら、次は餅巾着に箸を伸ばした。かぶりついて、アチッ! などと呟いている。


笛木
「そういえば、昨日は営業所の先輩と飲み会だったんです」
田崎
「あ、そうだったの。ごめんね、2日連続」
笛木
「いえ、それは大丈夫なんですけど……」

あの飲み会に比べれば、今日は天国に思えるし……。

僕は、フーフーとにんじんを冷ましながら、昨日のどんちゃん騒ぎを思い出した。


笛木
「住宅メーカーの高水ハウスの人と、たまたまお店で一緒になったんですけど、この週末に住宅展示場の草刈りをするそうで」
田崎
「そうなんだ」
笛木
「どこの会社も大変だなって思いました」
田崎
「……で?」
笛木
「で、って。以上ですけど」

田崎さんは、餅巾着をゴックンと飲み込んで、信じられないという顔をした。



田崎
「手伝いにいかないの?」
笛木
「えっ? 手伝いにって……、草刈りをですか?」
田崎
「それ以外になにがある?」
笛木
「僕が? なんで? 行きませんよそんな、昭和じゃあるまいし」

田崎さんは、ぱしっと箸を皿の上に揃えると、勢いよく僕の顔を覗き込んだ。


田崎
「今の若者はそうやってすぐ慣習を馬鹿にするけどね。なにが役に立つかなんてわかんないものだよ」
笛木
「はぁ」
田崎
「次の世代を担うのは君たちだ。変えていかなきゃいけないこともある。でも一方で、忘れないほうがいいこともある。温故知新ってやつさ」
笛木
「温故知新……」
田崎
「よって、きみは絶対に草刈りへ行くべきだ」
笛木
「……マジで言ってます?」

冗談だろ、と思ったが、田崎さんは今まで見た中で一番真剣な顔をしていた。

おでんを食べ終わって、店を出ても、「いい? 絶対手伝いに行くんだよ!」と念を押される。行かなかったら、末代まで呪われそうだ。なんかめんどくさいことになったぞ。こんな話、しなけりゃよかった……。





次の週末。

雨が降ることを心から祈ったものの、その日は梅雨明け一番の夏日で、皮肉にも絶好の草刈り日和だった。作業しやすい軽装で、高水ハウスの住宅展示場へ重い足取りでたどりつく。当たり前だが、あの日飲み会に誘ってくれた僕の先輩は来ていない。そりゃそうさ、お酒の席で聞いた他社の話を真に受けて手伝いに来るなんて、いないよそんな奴……。


高水ハウス社員A
「あれっ? きみ、花枝不動産の新人さん?」

振り返ると、飲み会で会った高水ハウスの人が、目をまんまるにして立っている。あの日はビシッとスーツを着ていたが、今日はTシャツ長ズボンだ。


笛木
「こんにちは、お疲れ様です……」
高水ハウスA
「え、もしかして、手伝いに来てくれたの?」
笛木
「はい、まぁ」
高水ハウスA
「まじかーっ!」

えっ、そんなに喜ぶ?

今度はこっちが目を丸くする番だ。

大声を出すもんだから、展示場の窓から他の社員さんが数人、顔を出した。


高水ハウスA
「おーい、みんな! 花枝さんの社員さんが手伝いに来てくれたぞーっ!」
高水ハウスB
「えっ?! ほんとに?」
高水ハウスC
「人手不足で困ってたんだよね。すごく助かるわー!」

揃いも揃って笑顔になる高水ハウスの人たちに取り囲まれ、かわるがわる握手まで求められてしまう。あまりにも歓迎されるから、めんどくさいという気持ちは自然と消えてしまった。


笛木
「なんでも手伝います。どこから刈りましょうか」
高水ハウスA
「ありがたいなぁ。じゃあ、側溝まわりを頼めるかな」
笛木
「わかりました」


指定された場所へ行くと、梅雨の時期にたっぷり水分を吸った草が勢いよく伸びていた。お客さんの目の届くところは割と整備されているようだったが、目立たないところの手入れにはなかなか手が回らないのだろう。

借りた草刈り鎌で、さくさくと雑草を刈り取っていく。小一時間で、僕の周りには草の山が出来上がった。


笛木
「終わりました。次はどうしましょう」
高水ハウスB
「早っ。助かるよ、えーっと……」
笛木
「あ、笛木。笛木友也です」
高水ハウスB
「笛木さんね。手際いいねー、君!」
笛木
「いえいえ……。でも大変ですね。こんな力仕事までしなきゃいけないなんて……」
高水ハウスB
「住宅展示場は、会社の顔だからね」

高水ハウスの人は汗を拭き拭き、スポーツドリンクの蓋をカチリと開けながらニコッと笑った。


高水ハウスB
「ベストな状態の家を見て、イメージを膨らましてもらいたいから」
笛木
「ベストな状態、ですか」
高水ハウスB
「常にお客様のことを考えるのは当然。まぁ、笛木さんも営業さんだから、同じだと思うけど」

同じだろうか。

あははと口先だけで笑いながら、心臓がきゅっと痛くなる。正直言って、そんなこと考えたこともなかったからだ。

俯く僕に、高水ハウスの人はペットボトルを手渡しながら言った。



高水ハウスB
「だから今日は来てくれて本当に感謝してます。なにかお礼ができればいいんだけど」
笛木
「そんな、今いただいたコレで十分です」

スポーツドリンクを軽く持ち上げてみせるが、彼はそのまま、うーんと首をひねっている。すると、側で話を聞いていた別の社員さんが口を挟んできた。


高水ハウスC
「先輩」
高水ハウスB
「うん?」
高水ハウスC
「この前のあのお客さんをご紹介するっていうのはどうでしょう」
高水ハウスB
「あぁ、あの!」

嬉しそうにポンと手を打ち、首をかしげている僕に向き直る。
高水ハウスB
「今、お家を探しているお客様がいるんだけど、高水ハウスではちょっとご要望にお応えするのが難しくて。その人を、笛木さんに紹介します」
笛木
「えっ、いいんですか」
高水ハウスC
「こっちも困ってたんですよね。だからむしろ助かります」

思いも寄らない展開だった。


笛木
「あ、ありがとうございます……!」

脳裏に、あの日のおでんの香りと、「なにが役に立つかなんてわかんないものだよ」という田崎さんの真剣な表情がふわりと浮かんだ。




所長
「笛木ィ!!」
笛木
「ひゃい!」
所長
「なんだお前、最近調子いいじゃないか!」


それから約1カ月後。僕は再び所長に褒めちぎられていた。


所長
「先輩の手伝いなく、自分で契約取ってくるなんて、配属のときとは別人だな!」

そう、あれから僕は高水ハウスの人から紹介してもらったお客さんと、無事契約を交わすことができたのだった。と言っても、完全に高水ハウスの人たちのおかげなんだけど。……それに、田崎さんのアドバイスも……。


所長
「この調子で頑張るように!」
笛木
「はい」
所長
「というわけで、笛木はOJT終了! 今日からひとりで仕事をすること」
笛木
「はい?!」
所長
「みんな拍手!」

営業所内から、ぱらぱら、と気の無い拍手が起こる。


マジで?! いきなり独り立ち?! どう考えても無理だって……!


朝礼が終わり、青ざめながら席に戻った僕は、自分のデスクを二度見した。パソコンのモニター前のスペースが、極厚のバインダーで埋め尽くされていたのだ。


なんだこれ。


困惑し、そーっとバインダーをめくってみる。


弁護士? 競売? 任意売却……?


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なんだか不穏な単語が並んでおり、そーっと閉じたところで、ぽん、と肩を叩かれる。いつもめんどうを見てくれていた先輩だった。


先輩
「独り立ちおめでとう」
笛木
「い、いや、僕としてはまだ、先輩にはいろいろと助言をいただきたく……」

言いかけて、息が詰まる。先輩の目が、全然笑っていなかったのだ。



先輩
「期待のルーキー笛木クンの、華々しい第一歩にふさわしい仕事を回してやるよ」
笛木
「えっ?!」
先輩
「資料はこのバインダーね。成績優秀なキミなら、読めばわかると思うから」
笛木
「そ、そんな……!」

慌てる僕をよそに、先輩は「ポスティングいってきまーす」と高らかに宣言して、さっさと外へ出て行ってしまう。


呆然と立ち尽くし、資料の山の一番上を改めて手に取った。


物件名は、「セントラルハイツ川久保」。築30年、8階の角部屋、2LDK。さっそくネットで場所を検索してみたが、駅から少し離れてはいるものの、窓が大きく南向きで、築年数にしては割といい感じのマンションだった。


なんだ、どんな事故物件かと思えば……と、一度は拍子抜けしたが、資料を読み進めれば読み進めるほど、イヤな汗が出た。


どうやらこの案件の問題は部屋ではなく、売主のようだった。この部屋は、住宅ローンの滞納で、競売寸前の状態になっているようなのだ。僕は、頭の中で入社時に渡された研修資料をペラペラとめくる。


確か「競売」になった物件は、遅延損害金なんかが上乗せされて借入金がかさみ、安く買い叩かれることもある。それで、売主から相談を受けた弁護士がこの話を花枝不動産に回してきた、ということらしい。


事故物件ではないが、事故寸前案件だ。


顔を上げるが、他の先輩も所長もみんな忙しそうで、とてもじゃないけど相談できそうな雰囲気ではない。


ひとりで、なんとかするしかないのか。

僕は、絶望的な気持ちで、ゆっくりと席を立った。





セントラルハイツ川久保、801号室。

出迎えてくれたのは、老夫婦だった。旦那さんは70歳前後くらい。一方、奥さんのほうはもう少しだけ若く見える。


秀雄
丸川(まるかわ)です」
幸子
「妻の幸子(さちこ)ですぅ」

通されたリビングで、テーブル越しに僕らは向かい合って座った。

すっ……と目の前に出された名刺には、『丸川工業 代表 丸川秀雄(まるかわひでお)』とある。



笛木
「会社を経営されてるんですか?」
秀雄
「それは古い名刺です。今は会社は畳んで、タクシードライバーをしています」
笛木
「あ、そうですか……」

ややこしい!!


細くて白髪の旦那さん。分厚い黒縁メガネの奥で、ぎょろっとした目玉が存在感を放っている。愛嬌のある顔立ちなのに、口調はかなりそっけない。


幸子
「ごめんなさいねぇ。この人、何度言っても新しい名刺を作らないの」

バッチリメイクの奥さんのほうは、グレーの髪に細かいパーマをかけ、小ぎれいな服を着ている。若いころは、相当な美人だったんじゃないだろうか。でも、あれ……? けっこう派手な感じだけど、お金がないんじゃなかったっけ……。


僕は、どう話を切り出したらいいものかと考えあぐねながら、出された湯呑みに口をつけた。


幸子
「若い人が来てくれて嬉しいわぁ。友也クンだっけ? お饅頭好き? おせんべい食べる?」

テーブルに次々とお菓子を並べて、僕の顔を覗き込む幸子さん。もっふもふのパーマが目の前で揺れる。


笛木
「あ、いや、お気遣いなく……」
幸子
「あ、どっちも嫌い? 羊羹なら食べる? あなた、ちょっとそこの商店街で羊羹買ってくるわ」
秀雄
「うん」
笛木
「は?! いや、大丈夫です、饅頭いただきます! 僕、饅頭大好きなので!!」
幸子
「あらそう? あ、でもソレも美味しいと思うわ。『うまや』のお饅頭だから」
笛木
「ゲフッ」

うまやって、あの高級和菓子店の?!

お金に困っているとはとても思えないけど、いったいこれはどういうことだろうか。

幸子さんはまったく気にするそぶりもなく、薄皮饅頭を小皿に乗せて僕に差し出すと、お茶を淹れ直し始めた。


笛木
「……ここにはずっとおふたりでお住まいなんですか?」
幸子
「えぇ。もう30年くらいになるかしら」
笛木
「失礼ですが、ほかにご家族は……」
幸子
「息子がひとりいたんだけど、今は絶縁状態なの」

それまで無表情で黙っていた丸川さんが、ピクリと片眉を震わせ、険しい表情になる。……とても怖い。


笛木
「えーっと、一通り資料は拝見したんですけど、もう一度弁護士さんにご相談になった経緯を伺ってもいいですか?」
幸子
「このマンションは住宅ローンを組んで買ったんだけど、早い話が、会社が潰れてローンが払えなくなったのよ。ね、あなた」

幸子さんは、昨日の天気の話でもするかのように軽い口調で丸川さんを見やった。


秀雄
「買った当初は3000万円くらいだったと思います。今はいくらで売れるかわかりませんが」
幸子
「なんか、ゆくゆくはケイバイ? ってやつになるんでしょう? そうしたらお家が買い叩かれて、全然お金が入ってこないからローンの返済は不可能って聞いて」
笛木
「そうですね、自己破産せざるを得なくなるかと……」
秀雄
「それだけは絶対に避けたいと思ったのです」

競売

競売とは、債権者が裁判所を通じて不動産を競りにかけて、最高価格を申し出た人に対して売却し、その売却代金によって債務の弁済を受けるという制度のことを指します。日本では一般的に地方裁判所が競売を行います。

丸川さんが突然、今日イチ大きな声を出した。何度も言うけど、とても怖い。


秀雄
「知り合いの弁護士に相談に行ったら、競売以外の方法があるから不動産会社を紹介すると言われまして。……ですが担当者名はフエキさんではなかった気がしますが」
笛木
「ちょっと、事情がありまして……」

丸川さんは幸子さんに全ての愛想を吸い取られたかのようにニコリともしない。そればかりか、顔に『なぜこんな若造が』と書いてある気がする……。


笛木
「あの、今回は、任意売却という方法を取ろうかと思ってまして」

僕は、丸川さんの冷たい視線から必死に目をそらして言った。幸子さんが、案の定首をかしげる。僕は、ここに来る前に読みこんだ資料で得た知識を披露した。


笛木
「任意売却というのは、自己資金などで借金が返せる見込みがなくても、金融機関に了解をもらって不動産を売却する方法のことです。もちろん金融機関もいつまでも待ってくれるわけではないので、任意売却ができるのは期限があって……」

任意売却

任意売却とは、住宅ローンが返済不能となり、抵当権のある住宅を売却しても残債ができてしまう場合に、金融機関などの債務者の協力を得て売却する方法のことを指します。任意売却は競売を回避できることに加え、市場価格での売却となるため競売より比較的高値で売却できる可能性が高いです。

ここに来る前にエクセルで引いた売却プランを頭に浮かべる。


笛木
「だいたい秋くらいまでに売却できなければ、それ以降は競売になってしまうかと……」

幸か不幸か向こうもそんなに知識がないから、それ以上はなにも聞かれなかった。代わりに、丸川さんにジロリと睨まれる。


秀雄
「そこは、笛木さんがうまくやってくれるんですよね」
笛木
「あっ、はい、あの、頑張ります」

うまくやるなんて口が裂けても言えず、とりあえずお茶を濁した。自信なんてカケラもない。っていうかなんなんだこれ、明らかにこんなひよっこの新人が担当する案件じゃないよな?!

そう思うのに、幸子さんは、頼もしいわぁ、なんて言いながら満面の笑みを浮かべている。


笛木
「とりあえず、広告に載せる写真を撮らせてもらえませんか。週末にまた来ますので、それまでにお部屋を少し片付けていただけると……」

本当なら今日撮りたいところだったけど、それはこの部屋に入ったときから諦めていた。室内は、決して汚れているわけではなかったが、とにかく物が多くて雑然としている。リビングでコレなんだから、他の部屋の散らかり具合はちょっと想像したくない。

丸川さんが黙ってうなずくのを確認して、ではまた土曜日に……と席を立ちかける僕を、幸子さんが呼び止める。


幸子
「もう5時よ。夕飯食べて行きなさいな」
笛木
「夕飯? だ、大丈夫です」
幸子
「そんなこと言わないでぇ。この人、最近すっかり少食になっちゃって寂しいの」

「ね!」とニッコリされると断れなくなってしまう。

丸川さんは相変わらずの仏頂面だったけど、妻の言動には口出ししないタイプの人らしく、黙って座っているばかりだった。


で、なにが出てくるのかと思いきや、幸子さんは電話機の横の書棚をガサコソやっている。しばらくして、ジャーンとばかりに取り出したのは、ピザ屋のチラシ……! ここのピザ、食べてみたかったのよね〜なんて言いながら。


う、嘘だろ、お金ないんじゃないのか。



幸子
「もしもし? ピザの配達お願いしますぅ。注文? 注文は……友也クン、選んで」
笛木
「い、一番安いやつでいいです……!」
幸子
「遠慮しないでぇ〜払わせたりしないから」
笛木
「いえ、なおさら大丈夫で」
秀雄
「海鮮とチキンを1枚ずつ」
幸子
「はいはーい、シーフードパリジャンデラックスと、クワトロ炭火テリヤキ、あとは気まぐれ野菜スペシャルのLサイズお願いしまーす」
笛木
「ヒィッ」
幸子
「サイドメニューは?」
笛木
「いらないです! 飲み物ならペットボトルのお茶、持ってます……!」
秀雄
「ポテト」
幸子
「カリカリポテトとフライドチキンも追加で〜」
笛木
「ヒィッ」

彼らがローンを返済できずにいた理由を垣間見たような気がして、僕はひとり震え上がった。

もしかしてこの夫婦、会社経営がうまくいっていたころの勘定グセがしみついたままなのでは……?! 前途多難な予感しかしない……!




週末、再び部屋に行くと、幸子さんは買い物に出かけているらしく不在だった。丸川さんは、僕を黙って部屋に入れたきり、背中を丸めて無言でアルバムの整理をしている。僕は勝手に座るわけにもいかず、突っ立ったまま聞いた。


笛木
「えっと、じゃあ、さっそく書斎のほうからお写真撮らせていただいてもいいですか?」

丸川さんはチラッと僕に視線を送り、


秀雄
「ここを出て左の扉です」

と短く言った。勝手に行って、勝手に撮れということらしい。僕は会釈して部屋を出ると、廊下の突き当たりのドアを開けた。


きっと頑張って片付けてくれたのだろう、部屋の中はかなり整頓されていた。でも、当然ながら家具なんかはそのままだから、物を置いたままいかにうまくスッキリ見せるかがカギになりそうだ。



スマホを取り出して、一枚写真を撮ってみる。初歩的ミス。逆光だ。今度は窓のほうから一枚。きれいには撮れるものの、背後から太陽がさしこんでいるため自分の影が思いっきり映り込む。


困ったなぁ、と頭をかきながら、今度は部屋の中央から。どうにも雑然として、部屋の広さが伝わらない。少し上のアングルから撮ればマシになるだろうかと、書斎机の椅子を引き出して部屋の隅に据える。上に乗ってシャッターを切ってみた。部屋の広さはわかるけど、生活用品がものすごく目立ってしまう。


ならばと今度は床に寝転がった。一枚撮って確認する。

お、意外といい感じかもしれない。

今度は寝る向きを変えてもう一枚……。


笛木
「イテっ!!」

突然、お尻に鈍い痛みが走り、僕は悲鳴を上げた。

涙目で目をやると、部屋のドアがお尻にめり込んでいる。振り仰げば、ドアノブに手をかけたまま固まっていたのは、丸川さんだった。そのまま3秒ほどお互い見つめ合ったのち、丸川さんは思いっきり吹き出した。


秀雄
「ものすごい、体勢ですね、」
笛木
「すみません、お部屋をなんとかきれいに撮りたいと……」

クックッと笑いながら、部屋に一歩入って手を貸してくれるので、ようやくお礼を言いつつ起き上がった。丸川さんの腕はガリガリに痩せて、手は少し冷たい。


秀雄
「なかなか帰ってこないと思ったら……。まだこの部屋を撮っていたんですね」

時計を見て驚いた。もう30分も経っている。


秀雄
「お茶を出します。リビングへどうぞ」

口角を上げて部屋を出ていくもんだから、慌てて追いかける。

リビングに入ると、今度はダイニングテーブルの席へ座るよう促される。

丸川さんが冷水筒の麦茶をグラスに注いでいる間に、僕は作ったばかりのチラシのサンプルをカバンから取り出した。


笛木
「これ、売りに出すときの広告なんですけど。この枠の中に、今撮った写真をはめようと思ってます」

会社指定のテンプレートを使っただけのものだったのに、丸川さんはなんだか感慨深そうな表情を浮かべた。


秀雄
「これが我が家の広告か」

呟いて、僕の顔を見る。


秀雄
「笛木さん、頑張ってくれているんですね」

まだまだやらないといけないことは山積みだったが、しみじみ言われると照れ臭くて、僕は、いえいえ、なんて言いながら麦茶を一口飲んだ。

ふと、テーブルの上に広げられたアルバムが目に入る。立派な工場らしき建物の前で、社員さんが10人ほど並んでいる古い写真が貼ってあった。



笛木
「それ、昔経営されていた工場ですか……?」
秀雄
「そうです」
笛木
「一番端の女性は、幸子さん?」
秀雄
「ええ。抱いているのは息子。このときちょうど、2歳くらいかな」

あー、あの、絶縁状態という。という言葉は辛うじて呑み込む。


もう一枚ページをめくると、見開きいっぱいが、息子さんと思しき人の写真で埋め尽くされている。細い小枝のような指で、丸川さんは写真を次々と指差した。


秀雄
「これは卒園式、小学校入学式、中学と来て、ここからは高校」
笛木
「サッカーされてたんですか。ボール持ってる」
秀雄
「スポーツ万能でね。かといって、勉強にも手を抜かない、努力家でした」

「でした」、というのがなんだか切なくて、僕は黙り込んだ。


秀雄
「大学は経営学部に入ってくれたので、私としては会社の将来は安泰だと思っていたのですが、家業を継いでくれと頼んだら大ゲンカになりましてね」
笛木
「どうして……?」
秀雄
「本人にその気はなかったようなのです。幸子とふたりで説得しましたが、だめでした。そしてそのまま家を出ていって、それっきり。でもその後すぐに経営がうまくいかなくなったので、継いでもらわなくてよかったのかもしれません」

そんな家族の終わり方もあるのか……。僕は写真の息子さんの笑顔を見つめた。


秀雄
「ところで、笛木さんは入社何年目ですか」
笛木
「今、1年目です」
秀雄
「なるほど、どうりで貫禄がないと思った」

さらりと言われて、ウッと言葉に詰まる。


秀雄
「きっと、めんどくさい仕事だからと先輩に押し付けられたとか、そんなところでしょう」
笛木
「あ、いや、そんなことは……」

たぶん、あるんですけど!

そんな僕の心の中を見透かすように、丸川さんは、隠さなくていいんですよと笑った。


秀雄
「さっき、一生懸命写真を撮ってくれている姿を見て、息子の姿を思い出してしまってね」
笛木
「息子さんを……?」
秀雄
「笛木さんを信じてお願いするしかないと思い直しました。めんどうな案件に関わらせて申し訳ないが、改めてどうぞよろしくお願いします」

テーブルに額を押し付けんばかりにして深々と頭を下げる丸川さん。

僕も慌ててお辞儀する。


笛木
「こちらこそ、ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします——」

幸子
「……なにやってんの?」

顔を上げると、リビングのドアのところで、幸子さんがけげんな顔をしていた。


秀雄
「お帰り」
笛木
「お邪魔しています」

慌てて立ち上がって挨拶しようとすると、幸子さんは、いいのよ座ってて、と言いながら、両手に持っていたスーパーの袋をどかっとテーブルの上に置いた。


笛木
「お買い物ですか?」
幸子
「ええ、駅弁フェアやってたから、お弁当買い込んできちゃった」
笛木
「……!」
秀雄
「うまそうじゃないか。どうだい、笛木さんもひとつ」

うわ〜、すごい豪華〜、って、違うんだよっ!!


僕は、いろいろ言いたい気持ちをぐっとこらえてカバンに手をやったついでに、もう一つこの夫婦に伝えなければいけないことがあったのを思い出す。



笛木
「あのですね、丸川さん。近々、引っ越し業者に見積もりを取っていただけませんか」

手帳を取り出して、「丸川家にやってもらうことリスト」を確認する僕。


笛木
「まだなにも決まっていないのに気が早いようではありますけど、これからいろいろ資料を作るのに備えて、だいたいでいいから引っ越し費用を把握したくて」

チェックリストをひとり指差し確認して顔を上げると、ぽかんとした顔の夫婦と目が合う。


幸子
「ミツモリ……?」

幸子さんが、ゆるりと首をかしげる。


幸子
「どうやって取るの? 引っ越しの見積もりって」
笛木
「えっ、と、まずはネットで業者に予約を……」
幸子
「ねっと」
笛木
「スマホでもできますよ?」

丸川さんのほうを見たが、無言なだけで幸子さんと理解度は変わらなさそうな気がする。そういえばこの人たち、ずっとここに住んでるんだっけ……。


笛木
「代わりに、やったほうが、いいですかね……?」

恐る恐る尋ねたとたんに、大きくうなずくふたり。


聞かなきゃよかったと後悔しながら、僕はしぶしぶスマホを取り出した。

検索エンジンに、【引っ越し 見積もり】と打ち込み、サイトから各社に一括で見積もり依頼をする。ほどなくして、大手の引っ越し会社から電話がかかってきた。


見積もりの訪問日を決めるのかと思いきや、今この地域の担当者がちょうど近くにいるので、すぐに来ることができるという。丸川夫婦に次を任せるのは無理だと判断した僕は、さっそく訪問をお願いした。



業者
「お、お見積もり依頼、あ、ありがとうございます」

30分ほどしてやって来たのは、僕と同じ年頃で、メガネをかけたひょろひょろの青年だった。僕だけには言われたくない、とか言われそうだけど、小鹿のようにオドオドしている。


業者
「ま、まず、家具と家電の数をお伺いしたいんですけども」
幸子
「家電は、洗濯機とテレビと……一部屋ずつ見てもらったほうが早いかしら?」
業者
「は、はい。そうですね」

幸子さんとリビングを出て行って、ダイニングテーブルに再び戻って来たメガネくんは、ぷるぷる震えながら書類にペンを走らせ、こんな感じでいかがでしょう、と見積もりを見せた。丸川夫妻は、「へー」みたいな感じで眺めているが、僕は思わず顔をしかめてしまう。想定よりずいぶん高い気がしたからだ。


笛木
「この金額って、なんのオプションですか?」
業者
「エ、エアコンおそうじサービスです」
笛木
「それ、除いてもらってもいいですか?」
業者
「エッ、でも、さっき奥様に聞いたら入れていいですって……」
笛木
「幸子さん、エアコンなんてこのタイミングで掃除しなくても大丈夫ですよ」
幸子
「あらそう?」
笛木
「あとこれは?」
業者
「ふ、不用品がたくさんありそうでしたので、引き取り金額をあらかじめ……」
笛木
「それも別でなんとかするので大丈夫です。あと、このグッズ販売っていうのは?」
業者
「そちらは、お、お引っ越し先で使っていただける耐震グッズを……」
笛木
「それも削除で」

メガネくんはいっそう手をぷるぷるさせながら、グッズ販売の行にバツをつけた。ほかにムダなものが入っていないか、僕は見積もりに目を走らせる。


笛木
「このフルサービスパックというのは?」
業者
「こ、梱包から開梱まで、全てスタッフが行うプランです」

全体を見ると、けっこうこの金額が大きい気がした。でも、このふたりの様子と、物の多さから考えると、自分で荷造りできるとは到底思えない。


業者
「あの、どうかこのあたりで……」
笛木
「うーん」
業者
「お、お願いします。これ以上減らすと怒られちゃうんです」
笛木
「でも、もうちょっと……」
業者
「ほ、ほんとに勘弁してください。て、ていうかあなた誰なんですか、ご家族じゃないみたいですけど」

僕は顔を上げ、メガネくんに見積もりを突き返しながらニコリと笑って言った。


笛木
「息子です」


秀雄
「すごかったな」

メガネくんが帰って行った後、丸川さんが感心した声を出した。こんなに安くなるなんて、と当初よりもかなり金額が下がった見積書を指差す。


幸子
「ホント、頼もしかったわぁ。ね、今夜も夕飯食べてって」

ニコニコ言われて、今日は僕もおとなしく食卓に座った。契約を取ったわけでもなんでもないのに、入社して以来一番と言えるくらい、充実した一日だった気がした。



幸子
「カニ食べ比べ弁当か、うにづくし弁当か、あなご弁当か……どれがいい?」
秀雄
「笛木さん、先に選んで」
笛木
「えっ、じゃあ、あなごを……」
幸子
「あなた、また夕飯抜くつもり? ちゃんと食べなきゃダメよ」
秀雄
「後でいただくよ」

幸子さんは、んもう、と口を尖らせ、僕の前にあなご弁当を置いた。僕はぎっしり詰まったあなごを、幸子さんはカニをそれぞれつつきながら、僕らは夜遅くまで他愛もない話をした。このおだやかな時間が、ずっと続けばいいのにな。そう思ったけれど、僕の願いはあっけなくガラガラと崩れ去るのだった。





その日は朝から顧客対応をして、午後からは事務作業をする予定だった。丸川家へは、あれからも何度か行って写真を撮り、チラシも完成した。会社のホームページの掲載準備も整って、さてこれから家を売り出そうという頃合い。あとは書類作成もろもろを、午後の時間を使ってやろう……そう思っていたとき、幸子さんから電話があった。


幸子
「友也クン」

不安そうな声で僕の名前を呼んだきり、黙ってしまう。


笛木
「幸子さん? どうしました?」
幸子
「どうしよう……」
笛木
「なにがです?」
幸子
「夫が……夫が、倒れたの……」


倒れた……?


さーっと、頭の先から血の気が引いていく。

電話を切るや否や、病院へ駆けつけた。6人部屋の窓際のベッドを囲むように引かれたカーテンの隙間から滑り込むと、げっそりとやつれた丸川さんが、ベッドに横たわっていた。


前から細いな、少食だな、とは思っていたけど。まさか、本当に病気だったなんて。


ピクリ、とまぶたが動き、目がうっすらと開く。



笛木
「丸川さん!」

必死に呼びかけた。うつろな瞳がこちらへ動き、浅黒い唇がゆっくりと動く。


秀雄
「あ……た……」
笛木
「なに? なんですか、丸川さん」

耳を丸川さんの顔へ近づけると、吐息混じりの苦しげな声が鼓膜を揺らした。


秀雄
「あと……は、たの……み……ます……」
笛木
「頑張ります! 僕、頑張りますから! だから、最後みたいなこと言わないで、丸川さん!」

僕の呼びかけもむなしく、丸川さんは目を閉じた。再び眠ってしまったらしいその横で、呆然と立ち尽くす。


幸子
「友也クン」

振り向けば、幸子さんが立っていた。


笛木
「あの、幸子さん、容体は、」

幸子さんは、きゅっと唇を噛み、僕を手招きした。そのまま談話室へ連れ出される。


幸子
「どうしよう、どうしよう、友也クン」

椅子に座るなり、幸子さんの目に涙があふれる。


笛木
「幸子さん、落ち着いて……」
幸子
「ガンなの」
笛木
「ガ、」
幸子
「あの人、胃ガンだったのよぉぉ」

ハンカチに顔を押し付け嗚咽を漏らし始める幸子さんを、僕は黙って見つめた。


そんな。ただでさえ借金まみれなのに。

これ以上、この夫婦からなにを奪おうっていうんだ。


握った両手の拳を膝の上に置いて奥歯を噛み締める。


なんとしてでも、早くふたりの生活をなんとかしてあげないと。

でも、どうやって? 僕にそんなことができるだろうか。

誰か助けて。


誰か——?




田崎
「最近、営業所に行っても姿が見えないと思ったら……」

数日後、例のおでん屋『割烹 おた恵』に、僕と田崎さんはいた。ただならぬ様子を察してか、今日はテーブル席。田崎さんは話を聞き、資料を見るなり、盛大に顔を曇らせた。


田崎
「こんなの、炎上案件じゃないか。どう考えても新人がやる仕事じゃないよ」

注文したおでんが、僕らの間でゆっくりと冷めていく。


田崎
「なんでもっと早く相談しなかったの。この仕事回してきたの誰? 僕が差し戻すから、今からでも担当を変えて……」
笛木
「だめです!」

田崎さんの言葉に、思わず両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった。ドンと皿が小さく跳ね、後ろで椅子が床に転がる。


笛木
「約束したんです、頑張るって」

拳を握る。脳裏をよぎるのは、丸川さんの笑顔、そして弱々しいベッドでの姿……。


田崎
「笛木くん……」

田崎さんが、僕を見上げて、ふっと微笑む。


田崎
「きみ、成長したね」
笛木
「せ、成長……?」
田崎
「まぁ座りなさい。このまま関わる気があるなら、いいタイミングで頼ってくれたとも思うよ。一緒に、どうすればいいか考えよう」
笛木
「ほんと、ですか」

田崎さんの言葉に、心からホッとした。張り詰めていたものが緩む。横倒しになった椅子を持ち上げて、半ば崩れるように座りなおす。



田崎
「旦那さんの容体は?」
笛木
「ガンがかなり進行しているので、まずは転移の有無を検査してから、外科手術をするかどうか決めるみたいです……」
田崎
「そんな状態か……。ちなみに、丸川さんって団信入ってる?」
笛木
「ダンシン?」
田崎
「団体信用生命保険のこと。もし入っていれば……、こういう話はすごく不謹慎なんだけど……、契約者である旦那さんが亡くなった場合、住宅ローン残高がゼロになる可能性があるんだよ。つまり、チャラ」

団体信用生命保険

団体信用生命保険とは略して「団信」と呼ばれ、住宅ローン申請者に万一のことがあった場合に、住宅ローンの残債を返済する保険のことを指します。この契約は、ローンの貸出者と保険会社との間で締結されるもので、住宅ローン契約の際にその加入が必要条件とされることがあります。

そんなこと考えてもみなかった。僕は、慌ててカバンから資料を取り出す。でも、どうやらどこにもそんな表記はない。


笛木
「入ってないかも……」
田崎
「ちょっと貸して」

田崎さんは、僕の手からファイルを取り上げ、しばらく文字を目で追ってから、「あー」と天を仰いだ。


田崎
「固定金利住宅ローン……しかも、フラット35に入ってるんだね」

フラット35

フラット35とは、住宅ローンの1つで民間金融機関と住宅金融支援機構が連携して提供する長期固定金利を指します。金利変動がないため、長期にわたる返済計画が立てやすく、独自の技術基準で物件検査を実施しているため品質に対する安心感もあります。

笛木
「あ、はい、確か」
田崎
「このプランは、団信に入らなくても契約できちゃうんだ。やばいね。旦那さんにもしものことがあると、今度は奥さんが借金丸かぶりで、遅延損害金が膨れ上がる……」

家族も部屋も失って、代わりに借金が残るなんて。


笛木
「早くなんとかしないと……!」
田崎
「部屋の売却の準備はできてる?」
笛木
「はい。営業所の前に張り出す広告を作って、ネットにも同じものを載せました」
田崎
「じゃあ、次は配分案を作ろう」
笛木
「配分案?」
田崎
「任意売却のときには、不動産の売却代金を各債権者にどう分配するかを明示しないといけない。しかも、今回の場合は借金が全額返せないというのが確定してるでしょ。だから、サービサーにお墨付きをもらう必要もある」
笛木
「さーびさー?」
田崎
「債権なんかの回収業務をやる会社のこと」

サービサー

サービサーとは、金銭債権の回収・管理業務を営業する者のことを指し、債権回収会社とも呼ばれます。不動産取引に関する金銭債権の回収・管理業務も弁護士またはサービサーでなければ行なうことはできません。

そんなことも必要なのか……。道のりが遠すぎる……。なんだか目眩がしてきた。

黙り込む僕を憐れんでか、田崎さんは、ヨシ、と明るい声を出した。


田崎
「サービサーに知り合いがいるんだ。紹介してあげるよ」
笛木
「ほ、ほんとですか……!」
田崎
「配分案のたたきを作って持っていけば、いろいろめんどうを見てくれるはずだ」
笛木
「ありがとうございます!」
田崎
「だからまずは、精をつけよう」


ビールを2杯と、追加のおでんを注文する田崎さん。


田崎
「大丈夫、絶対うまくいくよ」

カチン、とジョッキで乾杯して、できたてのおでんを口に運んだ。

ほかほかの卵。ふかふかの厚揚げ。どれもじんわりと胸に沁みた。





で、そのわずか一週間後。


笛木
(田崎さんの、大嘘つき——!!)

僕は、訪問した債権回収会社の会議室で、ひたすらあの日の田崎さんを呪っていた。

隣の席では、幸子さんが小さく縮こまっている。


会議机を挟んだ向かい側には、田崎さんに紹介されたサービサーの金本さんが、僕の作った配分案に目を通している。初めこそ柔和な表情を浮かべて、「話は聞いてるよ、どうぞどうぞ」みたいな感じだったのに。あれよあれよと態度が豹変し、今、金本さんの眉間には深いシワが刻まれていた。


金本
「笛木さん」

やがて資料から目を上げて、金本さんが僕をじろりと睨んだ。


金本
「あなた、配分案を作るのは何回目ですか?」
笛木
「は、初めてです」

僕が答えた瞬間、金本さんは、資料をバサリと机の上に置いた。

幸子さんがビクッと体を揺らす。


金本
「では、今すぐ上司の方に電話をしていただけますか?」
笛木
「は、上司?」
金本
「あなたでは話にならない」
笛木
「えっ」
金本
「いきなりこんなめちゃくちゃな配分案を新人に持って来させるなんて、花枝不動産はなにを考えているのか、直接あなたの上司にお伺いしたい」
笛木
「えっ、あの、それだけはご勘弁を……! 具体的にどのへんがおかしいか、私に直接教えてもらえませんか……!」

僕が机に頭をこすりつけるようにして必死に懇願すると、金本さんは資料の一つを冷たく指差した。


金本
「まずここですね」

指されたところには、「引っ越し代」の文字が踊っている。


金本
「これは、どういう意味ですか?」
笛木
「あの、引っ越し代を、できれば御社にお支払いいただきたく……」
金本
「なぜですか?」
笛木
「と、言いますと」
金本
「どうしてこちらが払わないといけないんですか?」
笛木
「そ、それは……! 売主さん、旦那さんが入院してしまって本当に切羽詰まっていて、払えそうになくて……」

金本さんがギロリと僕らをひと睨みする。幸子さんは、とうとうハンカチを目頭に当て肩を震わせ始めた。しかし金本さんは構う様子もなく、なおも淡々と続ける。


金本
「さらに言うと、この引っ越しのオプションメニューですね。読み上げていただけますか?」
笛木
「さ、サービスパック……」
金本
「これはなんですか?」
笛木
「梱包と開梱のサービスがついている、引っ越しメニュー、です……」

金本さんは突然フフフと口の中で笑った後、真顔になって冷たい声で言った。


金本
「ふざけているんですか」
笛木
「そんなことは……!」
金本
「お金がない、こちらに払ってほしい、その上でなぜこんな高額オプションをつけているのか理解に苦しみます」
笛木
「そ、それは、ご夫婦ともにご高齢かつ旦那さんがご病気で時間も体力も……」
金本
「ない時間は死ぬ気で作るもの、足りない体力は自力でかき集めるものです。あなた、担当者じゃないんですか? 売主のためにわざわざ一緒にここまで来る、その覚悟は見せかけですか?」

僕は返す言葉もなく、口をつぐんだ。田崎さんの知り合いだからって、ちょっと甘く見ていた感は否めない。ここに来さえすればなんとかなる、向こうがなんとかしてくれる、そういう甘えが確かにあった。


隣では、幸子さんがぐすぐすと鼻を鳴らしている。万事休す。僕は唇を噛み、拳に力を入れた——。



ガチャ。

と、そのとき。会議室の扉が開いた。


笛木
「?!」

視線を向けた先に見慣れた笑顔があったので、僕はぽかんと口を開けた。


田崎
「やぁ、近くまで来たもんだからちょっと寄ったんだ。金本、悪かったね、この前は急に連絡して」
金本
「久しぶりだね」

金本さんの表情が、少しだけ和らぐ。


田崎
「今どんな感じ? 話し合いは順調?」

これが順調に見えますか?!

とは思ったものの、幸子さんとは反対側の僕の隣の席を陣取って軽い調子で聞くもんだから、場の空気が一気に緩んだ。


笛木
「あの、それが……、引っ越し代の件でお叱りを受けていたところで……」
金本
「田崎、新人に話を持って来させるならちゃんと仕込んで来てくれよ」

田崎さんは、机の上に散らばった配分案を見て、フムと顎に手を当てた。そして、金本さんに笑顔を向ける。


田崎
「金本、もしここで引っ越し代金が出ないとなると、なにが起こると思う?」
金本
「はぁ?」
田崎
「なんと、引っ越しができないんだよ」

当たり前のことをサラリと言うので、場の空気が一瞬止まる。


金本
「なら、そちらで根性を見せろと……」

金本さんのセリフに、人差し指を立てて、「根性見せようにも先立つものは必要だろ?」と明るく言い放つ田崎さん。


田崎
「引っ越しできないとなると、売却のタイミングがどんどんズレこむ。つまり、きみにも迷惑がかかる。それはあってはならないことだと僕らも思ってる。と、いうわけで、なんとか引っ越し代はお願いしたいんだよ」
金本
「ふざけ……」
田崎
「ただし、このままの条件でとは言わない。サービスパックは諦める。そうすれば、恐らく6掛けくらいの金額にはなるんじゃないかな。これでどうだろう」

金本さんは、しぱしぱと数回瞬きを繰り返し、むむ、と口を引き結ぶ。


田崎
「梱包と開梱は僕らが根性見せよう。ね、笛木くん」

田崎さんにニッコリされて、僕は背筋を伸ばした。


笛木
「は、はい。私が売主さんを手伝います」

隣で幸子さんが一段と大きな音で鼻をすすり、声もなく頭を下げた。


笛木
「だから……だから、お願いします!」


幸子さんに続いて、僕も再び机に額をこすりつけると、


田崎
「けなげな新人くんに免じて、ここはひとつ」

田崎さんの柔らかな声の後に、金本さんの盛大なため息が聞こえた。

やがて少し間を置いて、低い声で言う。


金本
「仕方ないな」
笛木
「じゃ、じゃあ……」
金本
「引っ越し代はこちらで持ちます。だから、ちゃんと滞りなく進めてくださいよ」
笛木
「!! ありがとうございます!!!」

大声で叫ぶようにして、三たび深々とお辞儀をすると、田崎さんが隣で微笑む気配がした。

<ワンポイント解説>

実は配分案を提出する際にサービサー側に詰められるのはあるあるな話です。物件を売却しても全ての債権を回収できない任意売却で、引越しや契約にかかる諸費用に加え、仲介会社側の仲介手数料などを差し引かれたら怒るのも納得できます。

だからと言って競売になると、さらに回収できる金額が少なることに加え時間もかかるので、どこかで落とし所を作らなけらばいけない。。。配分案に関するこのやりとりはその非常にリアルなやりとりが忠実に表現されているのです。




さあ、あとは物件が売れるのを待つだけ……なんだけど、僕はそわそわと落ち着かない日々を過ごしていた。別のお客さんの対応をしていても、丸川夫婦の顔がチラつく。ネット広告に問い合わせが来ていないか気になって、会社のホームページに数時間おきにログインしてしまう……。


先輩
「お前、またそのページ見てんの?」

固い声にビクッと体を揺らして振り返ると、先輩が後ろに立っていた。そもそもの根源。この物件を僕に振ってきた、あの。


先輩
「ずいぶんと熱心だな」
笛木
「はい……」

誰のせいですかっ! と言いたいのを辛うじてこらえる。


笛木
「なんとしてでも売らなきゃいけないので……なのに、待ってることしかできないのが苦痛で……」


すると先輩は、手に持ったインスタントコーヒーをずずっとすすった。



先輩
「本当に?」
笛木
「え?」
先輩
「本当に手は尽くしたのか?」
笛木
「もちろんです! 広告も作ったし、書類も揃えたし……」
先輩
「チラシのポスティングは?」
笛木
「あ……」

ぱちぱちと瞬きをして、僕は固まった。


先輩
「待ってるだけじゃダメだってんなら、印刷してばらまきゃいいじゃん」

「基本だろ?」と鼻を鳴らす先輩。

弾かれたように立ち上がって印刷機のほうへ突進しかけると、肩をつかまれる。


先輩
「お前、普通のプリンタで印刷しようとしてる?」
笛木
「は、はい」
先輩
「こういうときは輪転機使うんだよ。印刷スピードが倍以上になるから」

そう言って部屋の反対側の壁のほうへ連れて行かれた。大型印刷機そっくりの機械が置いてある。


先輩
「お前、これ使ったことあったっけ」
笛木
「ない、です」
先輩
「そうだよな。俺、教えてないもんな」

先輩はコーヒーを棚の上に置くと、


先輩
「じゃ、輪転機にチラシ、セットして」
笛木
「!」
先輩
「今、教えるわ」

先輩は僕の横に立って、使い方を指南してくれた。


基本的にはボタン操作なので難しくはないけれど、紙を置く向きにちょっとコツが必要なようだった。でも、一度読み込ませてしまえば、レーザープリンタよりずっと効率よくチラシが刷り上がる。




先輩
「ヨシ、これだけあれば十分だろ」
笛木
「ありがとうございます……!」
先輩
「じゃあ100枚ちょうだい」
笛木
「えっ?」
先輩
「俺の担当分と一緒に投函してやるよ」
笛木
「ほんとですか……!」
先輩
「じゃ、あとは頑張れよ」

ひらひらと手を振って、事務所から出て行く先輩に、僕は深々と頭を下げた。

こんなことになったのは先輩のせい、ではあるんだけど、でもこの仕事を担当したからこそ感じるやりがいもあることは確かなんだ——。



田崎
「頑張ってるね、笛木くん」
笛木
「ぎゃっ」

夜。

振り返ると、柱の影に田崎さんが立っていて、僕は思わず悲鳴を上げた。


笛木
「なぜここに」
田崎
「飲みにでも誘おうかと思って電話したのに、全然出ないからここかと思って」
笛木
「え、すみません」

僕は人気(ひとけ)のない営業所を見回す。スマホは後ろのデスクに置きっぱなしだった。



田崎
「これ、差し入れ」

差し出されたコンビニのレジ袋を、ありがたく受け取る。中には、カップ麺がふたつ入っていた。そういえば夕飯を食べ損ねていたことを思い出す。


田崎
「チラシの印刷?」

カップ麺にお湯をそそぎ、自分の席に座ってできあがるのを待っていると、田崎さんが輪転機を指差して聞いた。


笛木
「はい。昼間にも先輩たちが印刷する合間を縫って刷ってはいるんですけど、それだけじゃ間に合わなくて……。あとせめて1000、いや、2000枚は……」
田崎
「なるほど」
笛木
「今日は商店街でも配ったんですよ。明日は隣の区の公団住宅も回りたくて……どうしても数が必要で……」

ぶつぶつ呟いていると、パキッと割り箸を割りながら、田崎さんがおだやかな声で言った。


田崎
「この前も言ったけど」
笛木
「はい?」
田崎
「やっぱきみ、成長したよ」

目をぱちぱちさせる僕に、微笑みかける。


田崎
「つい最近まで、ポスティングなんて昭和、とか言ってたくせに」
笛木
「そ、それは」
田崎
「笛木くんが、お客さんと本気で心を通わせた結果だね」
笛木
「心……」
田崎
「さ、麺が伸びるよ。食べよう」

促されて、僕も割り箸を割った。仕事の合間に食べるカップ麺って、なんでこう美味いんだろう。そのままふたりしてしばらく無言で麺をすすった。


田崎
「こんな時間に食べちゃ、ほんとはマズいんだよね。本社へ行ってから体がなまっちゃってさぁ」

空になったカップ麺の容器を前に、腹をさすりながら田崎さんが言う。


笛木
「じゃあ、ポスティング一緒に行きます?」
田崎
「うん、そうしようかな。そろそろ健康診断の時期だし、運動しなきゃね」
笛木
「そういえばそうですね。健康診断のお知らせって、社内メールに来るんでしたっけ?」


言いながら、僕はメーラーを立ち上げた。あれ、メールが来てる。さっきはなかったのに。こんな遅くに、一体誰……。


笛木
「あ……」
田崎
「笛木くん? どうしたの、震えてるよ」
笛木
「田崎さん、すみません……」
田崎
「ん?」
笛木
「ポスティング、もういらないかも……」

僕は、パソコンのモニターを田崎さんのほうへ向けた。


笛木
「物件に……物件に、問い合わせが……」
田崎
「!」

立ち上がり、モニターの文字を追った田崎さんに、バシッと背中を叩かれる。


田崎
「やった! やったな、笛木くん!!」

【物件No.10038 セントラルハイツ川久保801号室 内見のお願い】

お客さんからの問い合わせメール。

ついに……、ついに、丸川夫婦の物件に興味を持つ人が現れたのだ……!






篠里
「たまたま仕事で上京したときに、チラシを見たんです」
笛木
「そうだったんですね……! お問い合わせ、ありがとうございます」

次の日のお昼どき。

受話器を耳に押しつけ、頭を下げながら、僕は画面をスクロールしてメール本文を見返していた。

メールで問い合わせをしてきたのは、篠里賢治(しのさとけんじ)さん、50代男性。現住所は、岐阜県になっている。


篠里
「2カ月後、12月から勤め先の営業所が増える関係で、関東へ転勤することになったもんで、ちょうど家を探しとったんですよ」
笛木
「なるほど」
篠里
「東京方面って基本的に家賃が高いでしょう。やで、妻や娘とは、条件が合わなければ賃貸アパートでも契約して、私だけ単身赴任かな、なんて言っとったんですがね……」
笛木
「ちょうどいいタイミングで見つけていただいたんですね。次はいつ東京へ? 内見希望とのことで、こちらはいつでもお待ちしております、というか、なるべく早く来ていただけますと非常に非常に助かりますが……」
篠里
「ちょっと、その前に」
笛木
「はい?」

受話器の向こうで一瞬なにかをためらったような気配の後、意を決したように篠里さんは聞いた。


篠里
「この物件、なんかワケありですか?」
笛木
「えっ?」
篠里
「駅からはちょっと遠いし、築30年と古めではある。でも、高層階の角部屋で、しかも2LDKでしょう。間取りも悪くないし、写真を見るに割ときれいそうですし。なのに、どうしてこんなに安いのかなぁと、逆に心配になりまして」
笛木
「えーっと」

どうしよう、正直に言ってしまおうか。ネットでちょっと調べれば、わかってしまうことではある。でも、せっかく買ってくれそうな人が現れたのに、チャンスを不意にしたくない。任意売却物件は、市場より安く出回ることが多い一方で、金融機関が絡んでくるから嫌がる人もいると聞くし……。


ぐるぐる考えながら言い淀んでいると、篠里さんが、恐る恐るといった調子で言った。


篠里
「もしかして、この家って」

あ、バレたか……。


笛木
「はい……、実はこちら、任意ば」
篠里
「お化けが出よるんでしょう?」
笛木
「は? お化け?」
篠里
「いわくつき物件だから、安いんですよね?」

いわくつきはいわくつきなんですけども……!


笛木
「いや、お化けは出ません。断じて出ません!」
篠里
「あ、そうなんですか? ならええんです。私がこの世で唯一怖いのは、怪奇現象の類い(たぐい)なもんで」

篠里さんはあっけらかんと言い放つ。そして、満足げな声色で続けた。


篠里
「ラッキーでした。こんな、新築みたいにきれいでええ条件の物件に偶然巡りあえて」
笛木
「お眼鏡にかなって光栄です」

もうこれ以上なにも聞かれたくない僕は、そわそわと話を進める。


笛木
「それで、内見の日取りですが……」
篠里
「そうでしたそうでした。こっちもそれなりに急いどるので、早めに見たいから……、来週はどうでしょう」
笛木
「かしこまりました」

来週の月曜日、ちょうどまた出張で東京に出てくるというので、篠里さんとは直接、セントラルハイツ川久保で待ち合わせることになった。


電話を切って、すぐに立ち上がる。丸川夫妻に、一刻も早く知らせなきゃ。丸川さんとは病院で、幸子さんとはサービサーで、先月会ったきりだ。幸子さんの意気消沈した姿を思い出す。最近家に行けてなかったけれど、旦那さんが急に倒れて心細い思いをしていたはずだ。


今日は僕が夕飯を買っていってあげよう。そう思って、デパ地下のスーパーでお惣菜を買い込む。いつの間にか、街はハロウィンの装いだ。なんだか夏くらいから時の流れが一気に早くなった気がする。両手にスーパーの袋をぶら下げて、オレンジに彩られた街並みを通り抜け、僕は丸川さん宅のインターホンを押した。



はいはーい、と玄関先に現れた幸子さんは、驚くほど明るかった。


幸子
「友也クン、久しぶりね」
笛木
「お久しぶりです。旦那さんの容体は?」
幸子
「おかげで落ち着いてるの。今は、普通に話せるようになったわ」

空元気という感じでもない。僕は安心半分、拍子抜け半分で靴を脱いで、いつものようにリビングへ入った。まだ丸川さんは入院中だから、この家に幸子さん以外に人はいないはず……と思っていたのに。


田崎
「やあ、笛木くん」
笛木
「はぁ?!」

僕がいつも座る椅子に、ニコニコ腰掛けていたのは田崎さんだった。ほんと神出鬼没だなこの人!

幸子さんが湯呑みをお盆に乗せて持ってくる。


幸子
「この前、サービサーでお会いした人だわと思ってびっくりしちゃった」
田崎
「突然すみません」
幸子
「いいのいいのぉ。だって田崎さんったらすごくお話し上手なんですもの。友也クンとは大違い」
笛木
「ひ、ひどい!」
幸子
「今日はなんにも出すものがないのよねぇ。あ、さっき田崎さんに持ってきていただいた焼き菓子でもどうかしら」
笛木
「いや、お構いなく……ていうか、田崎さん、なんで」
田崎
「人の担当物件に押しかけるのはマナー違反だとは思ったんだけどね」

田崎さんは、悪びれる様子もなくニッコリ笑う。


田崎
「人手がいるでしょ? 引っ越し準備の」
笛木
「そうです……けど……!」
田崎
「それにホラ、僕の部署、ヒマだからさ」

ぱたぱたと右手を動かす。自分で言っちゃったよこの人。

すると、そばで聞いていた幸子さんが、引っ越し? と小さな声でつぶやいた。


幸子
「もしかして……」
笛木
「あ、はい、そうです」

僕は、エヘンと咳払いして、幸子さんに向き直る。


笛木
「実は、買主さん候補が見つかりました」

僕の言葉を聞いた瞬間、幸子さんが、両方の手のひらで口を覆う。


幸子
「ほんとう……?」
笛木
「はい」
田崎
「ほんとにギリギリでしたね。11月には競売になっちゃうところだったから」
笛木
「月曜日に内見に来るとのことなので、それまでに頑張ってなるべくお掃除しましょう」

絶対買ってもらえるように。



僕がそう強調すると、幸子さんの両目に、みるみる涙が盛り上がる。


幸子
「ありがとう……!」
笛木
「わわっ」

駆け寄ってきて、ぎゅーっと抱きしめられ、僕はアワアワしてしまう。恐る恐るその背中に手を添えて、照れ隠しに言った。


笛木
「少し片付けたら、ちょっと早いけど、今夜はお祝いですね」

なかなか離れない幸子さんの肩越しに、口角を上げた田崎さんと目が合った。



その日、引っ越し業者から届いた段ボールに書斎のものを梱包する作業をしてから、僕らは田崎さんが持ちこんだビールで乾杯した。僕が買ってきたちょっといいお惣菜を、幸子さんはもりもりと口に運んだ。どうやら、丸川さんが入院してからというもの、ほとんど眠れず、ほとんど食べずの生活だったらしい。


もっとケアしてあげるべきだったと反省して、それからは朝から晩まで丸川家に入り浸って片付けを手伝った。田崎さんもよっぽど暇らしく、毎日付き合ってくれている。



田崎
「こういう汚れはなかなか取れないよねぇ」

数日で一通り引越しまでに使わなさそうなものの梱包を終え、次は掃除だ。田崎さんが、壁についた黒い傷跡をゴシゴシやりながら言う。


田崎
「この前、改めてこの物件の広告を見て思ったけど、笛木くん上手に写真撮ったよね」
笛木
「そうですか? あ、でもちょっと画像ソフトで加工はしましたよ」
田崎
「……加工?」

田崎さんが手を止めてこちらを見る。


田崎
「加工って、なに?」
笛木
「そんな大したことじゃないですよ、色調を変えてみたり、壁の傷は画像ソフトでなるべく消してみたり……」
田崎
「いや、笛木くん、それはマズいよ」
笛木
「え?」
田崎
「多少明るくしたり、粗が目立たないように遠めに撮ったりすることはそりゃあるよ。でも壁の傷を消すのはさすがに」

そんなことを言われても今さらすぎる。仕方ないじゃないか、ちょっとでも部屋を良く見せたいのは当たり前だし……。



と、そのとき、スマホが鳴り始め、僕は床にしゃがんだまま、ポケットを探った。画面には、篠里さんの番号が表示されている。


笛木
「もしもし」
篠里
「笛木さん、すみません。今大丈夫ですか?」

外から電話しているらしく、バックに雑音が聞こえる。なんだか嫌な予感を覚えつつ、僕は、はい、と返事した。


笛木
「どうされました?」
篠里
「来週、そちらへ行くと言っとったかと思うんですが、ちょっと都合が悪くなりまして。来月にしてもらえないでしょうか」
笛木
「来月……」
篠里
「11月5日に伺います。本当に申し訳ない。あ、電車が来たもんで、切ります」
笛木
「あ、ちょ、篠里さ、」

一方的に暗くなったスマホ画面を呆然と眺める。


ちょっと待て。11月5日……?!

弾かれたように立ち上がる。リビングに駆け込んで、置きっぱなしだったバインダーを開き、資料をめくって、指先で契約書類の文字を追う。


笛木
「うわ……」
田崎
「どうした、笛木くん」

追いかけてきた田崎さんに、書類を見せる。


笛木
「買主さんが来る日……11月5日にズレこんでしまって……」

田崎さんの表情が凍った。


笛木
「11月6日は……、この物件が、競売になってしまう、日、ですよね……」

つまり、篠里さんと契約に持ち込めなければ、この家と丸川夫妻は、万事休す。部屋が二束三文で買い叩かれ、当然ながら借金も返せない。

青白い顔で見つめ合い、やがて田崎さんが口を開いた。


田崎
「こうなったら仕方がない。11月5日に契約と決済を同時に進めよう」
笛木
「えっ、そんなことできるんですか。普通分けますよね?」
田崎
「うん。通常の流れでは、契約と決済を別にして、手付金を払った後に家を引き払うから、かなりのレアケースではあるけど……」

つまり、当日、支払いと契約、引っ越しまで、全部やってしまうということか……。


田崎
「所長には僕から一言申し入れておくよ。笛木くんもそのつもりで書類を準備して」

田崎さんにそんな権限があるのかどうかはナゾだったが、とにかく僕は、藁にもすがる思いで頷いた。





11月5日。運命の日。


笛木
「丸川さん!」

僕と田崎さんがリビングに入っていくと、丸川さんが座っていて、思わず声を上げてしまった。前にも増してやつれた感じがするが、丸川さんは笑顔を見せる。


秀雄
「薬がうまい具合に効いてね。こんな大事な日にうかうか寝ていられないと、一時退院させてもらいました」

言いながら、ゆっくりした動作で立ち上がる。


秀雄
「妻から聞いています。あなたが、田崎さんですね」

丸川さんは、僕らに向かって、深々と頭を下げた。


秀雄
「私たちのために、ありがとう。今日はよろしくお願いします」
笛木
「こちらこそ。よろしくお願いします」

さぁいよいよだと背筋を正したのを見計らったように、玄関のベルが鳴った。



幸子
「いらっしゃいませ!」
笛木
「遠路はるばるありがとうございます!」
秀雄
「よろしくお願いします」
篠里
「え、あ、はい、どうも……」

丸川夫婦、田崎さん、僕の4人が玄関で整列して出迎えると、篠里さんはかなり戸惑った表情を見せた。しまった、ちょっと引かれたかな。

気を取り直して、さっそく部屋を見てもらうことにする。



笛木
「こちらが書斎です」

部屋に入るなり、篠里さんはカバンからチラシを取り出した。僕が作ったやつだ。それを左手に持ち、実物とチラシの写真を交互に見比べる。


篠里
「壁、こんな色だったのか……」
笛木
「はい?」
篠里
「いや。だいぶイメージより古く感じますね。床もきしんでるし」
笛木
「それは……築30年ですので、どうしても……」
篠里
「……次の部屋を見せてもらえますか?」

促されて、続いて寝室へ。再び険しい顔で、部屋を眺める篠里さん。


篠里
「この壁のキズは?」
笛木
「それは、数年前にベッドを移動したときについてしまったもので……」
篠里
「そういうことではなくて。広告の写真には、こんなキズはなかったと思いますが」
笛木
「あっ、それは……」

そんな細かいところまで見ているなんて。画像ソフトでちょちょいと消しました、とは言えず、あたりに漂う気まずい空気……。


篠里
「次は?」
笛木
「あ、はい、こちらへ……」

冷え切った雰囲気のまま、キッチンへ案内する。


篠里
「暗いですね」

篠里さんが、開口一番、蛍光灯が一本だけ据え付けられた天井を見上げる。


笛木
「は、はい、昔ながらの北向きキッチンなので……」
篠里
「ははは。笑ってしまうぐらい写真がうまく撮ってあるなぁ」

確かに、チラシを作るときには、かなり明るく見えるよう調整した。僕は、言い訳することもできず立ち尽くす。

すると、背後から田崎さんが穏やかに言った。


田崎
「笛木くん、リビングにご案内したら?」

確かに、心象の悪いまま、この場にいつまでも止まる(とどまる)のは良くない。僕らは急いでダイニングを経由して、リビングのソファに腰を落ち着けた。


笛木
「い、いかがだったでしょうか……」

恐る恐る聞けば、篠里さんは、うん、と頷いて、


篠里
「日当たりは良さそうやなと思いました。ベランダも南向きだし」

幸子さんが頷いて、早口で言う。


幸子
「とっても明るいんですよぉ。洗濯物もよく乾きますし」
篠里
「でも」

その言葉を遮って、篠里さんは続けた。


篠里
「ええなと思ったのはそこだけだったかなと」

そこだけ。

場が凍りつく。


篠里
「こっちも築浅やない上に中古ちゅうのは承知で来てます。でも、写真ではもっときれいに見えたのも事実で。写真の色調もうまく変えてあったみたいですし……。それに、」

チラシの寝室の写真を指差して、


篠里
「ここね。うまいこと壁の傷を隠しましたね」

バレてる。僕は冷や汗を垂らしながら、ごくりと生唾を呑み込んだ。

沈黙ののち、はあ、とため息をついて、篠里さんは僕らの顔を見回した。


篠里
「申し訳ないのですが、即契約というわけには。ちょっと考えさせてもらえますか」
笛木
「そんな」
篠里
「日用品を買うのとは、訳が違うので」
幸子
「ま、待って。壁の傷なら、責任持ってお掃除しますから……!」
篠里
「うーん、傷そのものがどうこうというより……写真の細工で、正直ちょっと、裏切られたような気分になってしまいまして……遠いところから来たのに」

ようやく気づく。良かれと思ってしたことで、騙すつもりはなかったとしても、受け取った人がそう感じてしまったらそれは立派な詐欺なんだ。

どうしよう、僕のせいで、丸川夫婦が路頭に迷ってしまう。どうしよう、どうしよう……!


篠里
「ちゅうわけで、笛木さん、売主さんも。今日はいったん、帰らせてもらいますわ」
秀雄
「待ってください!」

それまで黙っていた丸川さんが声を上げる。


秀雄
「今日契約してもらわないと、私たち、死んでしまうのです……!」
篠里
「そんな大袈裟な」
幸子
「本当なんです……!」
秀雄
「お願いします、お願いします……」
篠里
「なんなんですか、あなたたち……」

売主のあまりの必死さに、篠里さんは怯えた表情を浮かべた。「とにかく、今日はこれにて……」と席を立つ。


笛木
「待って!」


僕は、その前に必死で膝をつくと、勢いよく床にひれ伏した。


笛木
「お願いだから、待ってください!!」
篠里
「そんな、笛木さんまで……」
笛木
「写真を加工したのは謝ります! でもどうか、もう一度考え直していただけませんか……!」
篠里
「いや、だから……」
笛木
「はいと言ってくださるまで、ここを動きません!」
篠里
「えぇ……」

篠里さんが、困惑したような声を出す。


篠里
「心配しなくても、他の不動産会社には行きませんよ。またお電話しますから」
笛木
「そういうことじゃないんです!」

僕は、ほとんど悲鳴をあげるように声を振り絞った。


笛木
「今ここで、どうにか、どうにか契約を、していただきたいんです!」

しん、と部屋に静寂が満ちた。床の木目に、汗がぱたぱたと垂れる音が妙に響く。


篠里
「笛木さん。あなた、」

やがて、篠里さんが、静かに口を開いた。


篠里
「なんでそんなに必死なんです。見ず知らずの他人でしょう」
笛木
「他人じゃ……ありません」

じわっと視界がにじむ。身体中が熱くなる。


笛木
「僕は……僕は、この人たちの、命を預かっているんです……!」

幸子さんがおいおいと泣き出した。丸川さんも、ぐすっと鼻を鳴らす。


田崎
「私からも、お願いします」

田崎さんが、僕の後ろで頭を下げる気配がした。


田崎
「遠方から来ていただいた上、ご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません。でも、少し私どもの話を聞いていただけないでしょうか」
篠里
「話?」
田崎
「はい。この物件が、なぜこんなに安いのか」
笛木
「た、田崎さん……」

顔を上げると、田崎さんは静かに首を振った。


田崎
「笛木くん。ちゃんと話そう」


篠里
「下に引っ越し業者が作業するでもなくスタンバイしてたもんで、おかしいなと思てたんですわ」

再びソファに座り直した僕ら。この物件が競売寸前だということを理解した篠里さんは、盛大にため息をついた。


篠里
「それで? そんな訳だから情けをかけて買ってくださいと、そういうハナシですか?」
笛木
「それは……」

正直言ってそうなんだけど、篠里さんからしてみれば、なにひとつ状況が良くなったわけではない。どう説得したらいいものかと思わず下を向いたところへ、田崎さんが落ち着いた声で言った。


田崎
「この部屋は古めであることは確かです。笛木の写真の加工も、少しやりすぎでした。ですが、長い目で見れば、ここは本当にお宝のような物件かと思うのです」
篠里
「お宝? どこが」
田崎
「ご参考までに……」


田崎さんは、スマホを操作して画面を見せた。「セントラルハイツ川久保 605」とある。


田崎
「ちょうど昨日、このマンションの6階の部屋が売りに出たのですが。販売価格をご覧ください。この801号室の、約2倍の値段なんですよ」
篠里
「……!」

篠里さんが目を丸くする。僕も全く同じ気持ちだ。6階の部屋。そんなところにまで気が回っていなかった。


篠里
「うーん、でも、今日駅から歩いてみたのですが、やっぱり遠いなと思いましてね。毎朝の通勤が……」
田崎
「来年、この付近に新しい駅ができるのはご存知ですか?」
篠里
「え」
笛木
「えっ」

ぜ、全然知らなかった……!


秀雄
「そういえば、新聞に載っていましたな」
幸子
「そうね」
笛木
「えっ」
田崎
「ちょうどそこの窓から黒っぽい壁のマンションが見えますが、あの辺にできるんですよ」
笛木
「近っ」
秀雄
「歩いて2〜3分というところでしょうか」
篠里
「ネットニュースで見た気がします。あれは、このあたりのことだったんですね」
笛木
「えぇっ」
田崎
「笛木くんは、なんで知らないの」
笛木
「ぐっ」
篠里
「すると……いずれ……」
田崎
「ええ。少し我慢すれば、もっと住みやすくなります。それに、新しい駅の周辺にショッピングモールができる計画もあるみたいですし、さらに便利に」
篠里
「ふーむ」
田崎
「ですから、このエリアの人気は、今後もどんどん上がっていくと予想されます」

考え込む篠里さんに、少し声色を変えた田崎さんがずずいと膝を寄せた。


田崎
「なのでもし、篠里様のご転勤が一時的なものでも……」

篠里さんが、ハッとした表情で田崎さんを見る。


田崎
「そう、将来的に岐阜のほうへお戻りになったとしても、このマンションは、そこそこいい家賃で貸せると思いますよ」

な、なるほど。僕は思わずごくりと喉を鳴らした。

一方の篠里さんは、ソファーに背中を落ち着けて腕組みしている。そのまま目を閉じて、しばらく悩んだのち、やがてぽつりと言った。



篠里
「わかりましたよ」
笛木
「!」
篠里
「契約させてもらいます」

目を見開く僕の顔を見て、いたずらっぽく笑う。


篠里
「前に笛木さんに、私が唯一怖いものは怪奇現象の類(たぐい)だけって言いましたしね」
秀雄幸子
「あ、ありがとうございます!」

よ、よかった……!

心の奥が熱くなり、今度は別の涙で視界がにじむ。

僕は黙って、深々と頭を下げた。




所長
「笛木ィ、お前、すごいじゃないか!」
笛木
「ひゃい!」

一週間後。朝礼で所長に思いっきり肩を叩かれ、変な声を出してしまった。デジャヴだ……。でも、心なしか、営業所を包む空気は前とは違って温かい。


所長
「笛木がまた契約を取った! みんな拍手!」

ぱちぱちぱち。

今度はいつかと違って、みんな笑顔で拍手してくれた。


所長
「そして今日は、もう一つ報告がある!」

拍手がおさまると、所長が大きな声で続けた。



所長
「夏からの成績と頑張りを考慮して、12月の納会で笛木の四半期表彰が決まった!」

わっ! と営業所が再び割れんばかりの拍手に包まれる。


そう、10月から12月までの第3四半期の営業成績が同期の中でトップだったということで、僕は小さな賞をもらうことになったのだ。

昨日、人事部からメールが来たときにはなにかの間違いじゃないかと思ったけれど、ようやく現実として受け入れることができた。


「おめでとう!」「よくやった!」「また頑張れよ!」と口々に肩を叩かれながら席へ戻って一息つく。


嬉しい。嬉しいんだけど、この表彰は僕ひとりの力で掴んだものじゃない。田崎さんがいなかったら、絶対に失敗していた。それは間違いない……。


と、そのとき、背後から顔の前に、缶コーヒーが差し出された。


笛木
「!」

驚いて振り返れば、そこに立っていたのは、例の先輩だった。


先輩
「お疲れさん」
笛木
「あ、ありがとうございます」

アツアツの缶を受け取ると、先輩は隣の席に腰掛ける。


先輩
「もう片付いたのか、セントラルハイツは」
笛木
「あ、はい」

あの後、田崎さんと丸川さんとで部屋を引き払う作業をしてもらい、その間に僕と幸子さん、篠里さんは、契約のために営業所へ向かった。マンションの下に待たせておいた引っ越しトラックで荷物を運ぶのとほぼ同時進行で契約をするという強行っぷりだった。


それからすぐに部屋へとんぼ帰りして掃除して、(あの壁の傷も苦労してなんとか消した)、その足で丸川家の新居へ行って。そのまま開梱作業をして、解放されたのは深夜だった。


ほっとはしたけど、何度も通った丸川家に行くのもこれで最後なのかと思うと、拍子抜けしたような気分になったのも事実だ。なんだか寂しい気もするし、丸川夫婦との出会いを思い返せば、大変なこともたくさんあったけれど、楽しかったような気もしてくるから不思議だ……。


ふいに、先輩がぽつりと言った。


先輩
「こんな重い仕事、ひとりでやり遂げるなんて、お前すごいわ」
笛木
「え? あ、いや、ひとりじゃな……」

隣に視線を向けると、真剣な眼差しにぶつかる。


先輩
「悪かったな、変な仕事振って」
笛木
「い、いえ」

僕は慌てて、先輩に体を向けて続けた。


笛木
「むしろ感謝してます。そもそも仕事を振ってもらわなかったら四半期表彰なんて絶対ムリでしたし……それに、この案件を通して、いろんな経験ができたし、やりがいも感じたし……」

先輩は、一瞬目を丸くして、きゅっと口を尖らせると、自分の分の缶コーヒーをぐいっと飲み干した。そして、


先輩
「お前やっぱすごいわ」


と、僕のデスクに空になった缶コーヒーをトンと置く。


先輩
「それ捨てといてー」

そして、「じゃ」と手を挙げると、先輩は事務室から出て行ってしまった。

ぽかんとその背中を追っていると、ポケットの中でスマホが鳴った。


笛木
「もしもし」
幸子
「友也クン」
笛木
「幸子さん! あれ、今日って初出勤の日じゃ」

あれからほどなくして、幸子さんは新しい仕事を見つけたのだ。


幸子
「うふふ、寝ぼすけな友也クンにモーニングコールよ」
笛木
「なに言ってるんですか。もう会社ですよ」
幸子
「っていうのは冗談。実は今ね、病室にいるの」

音質が変わる。スピーカー通話に切り替えたらしい。


秀雄
「笛木さん」
笛木
「丸川さん! 体調はいかがですか?」
秀雄
「おかげで、かなりいいです。ガンの転移もなくて、来月には手術ができるようで」
笛木
「よかった! 早く元気になってくださいね。幸子さん、ずっと家でひとりなんだから」
幸子
「それが、実はね、友也クン。息子と、連絡がついたの」
笛木
「えっ?! ほんとに?」
秀雄
「そうなんですよ。親戚筋から、私が倒れた話を聞きつけたみたいで」

丸川さんは、静かに、そして嬉しそうに言った。


秀雄
「これから少しずつ、関係を修復していこうと思っています」
幸子
「今日電話したのはね、新しい生活がスタートする前に、友也クンにお礼を言っておこうと思ったの」
秀雄
「そう。この数カ月間、私たちのために力を尽くしてくれて、本当にありがとう」
笛木
「僕のほうこそ。いろいろありがとうございました。たくさんご馳走もしてもらっちゃって」

でももうムダ使いしないでくださいね、と付け足すと、真面目な声で「わかりました」と返ってきて笑ってしまう。


笛木
「折を見てお見舞いに行きますね。幸子さんも、お仕事頑張って」
幸子
「ありがとう」
秀雄
「それじゃ、また」
笛木
「はい……、また」


名残惜しく電話を切る。さっきもらった缶コーヒーを開ける。

一期一会。そんな言葉を思い出した。

<ワンポイント解説>

無理やり契約から引き渡しまでその日でやり切る少し強引ともいえるシーン、まず大手の会社なら絶対やらないでしょうね。

基本的には買主さんが内見して、重要事項説明をしてそれに同意してもらい、契約をして、決済までに引越して家を空にして、空の状態をもう一度見てもらって、実際に引き渡す。これら全て基本的に別日にやるため、1ヶ月半〜2ヶ月程度はかかるものです。

買うかどうかもわからない状態で引越しの業者まで待機させちゃうなんて普通はありえない話ですが、法律的にはセーフですし、即引き渡し可の契約もありますが、それの究極系とも言えます。




師走はその名の通り走るように過ぎ、あっという間に年末。僕は、納会会場のステージ上でスポットライトを浴びていた。


ホテルの広い宴会場には、料理が乗った大きな円卓が所狭しと並んでいる。ほとんどの社員は営業所からリモート参加。この会場に来ることができるのは、本社の人と営業所長、そして各賞の受賞者だけだ。だから知り合いはほとんどいない。


僕は、進行のために動き回っている総務部や業務担当の人たちをソワソワと見回した。田崎さんとはあれから一度も会っていない。つい姿を探すけれど、目が届く範囲には見当たらなかった。今日くらいは会えるかなと思っていたのに、年末年始は社内外のイベントが多いから、今日は別の場所にいるのかもしれないな……。


司会
「第3四半期・新人賞、笛木友也さん」


名前を呼ばれて、ビクッと体を揺らし、恐る恐る進み出る。他の受賞者の先輩たちは、入社してから一度は名前を聞いたことがあるような凄腕セールスマンばかりだ。そんな人たちが、僕のために温かな拍手を送ってくれる。夢でも見ているような気持ちで、社長の前に立った。

社長
「おめでとう。1月以降も頑張って、次は新人賞を狙ってください」

無理です!


というセリフが喉まで出かかった。危ない危ない。

黙って深々と頭を下げ、受け取った賞状に目を落とす。墨字で自分の名前が書かれているのを見て、ようやく実感がわいてきた。正直、喜びというより、恐怖に近い。


表彰の連絡を受けたときも思ったけど、この賞はイチから自分で掴んだものじゃない。僕も確かに努力はしたけど、やっぱり田崎さんの助言やアドバイスが大きかった。実力じゃなくて、運が良かっただけ。新人賞なんてとんでもないし、すでに来月以降が不安で仕方ない。田崎さんを頼ろうにも、こんな風に業務部の仕事が忙しい時期は難しいだろうし、なによりいい加減自分で頑張らないと、ダメな気がする……。


司会
「花束贈呈は、昨年のMVP受賞者に行っていただきます」

司会の人の言葉に、賞状を軽く曲げて片手に持ち直した。さっさと表彰式を終わらせて、一刻も早くステージを下りたい。早く進めてほしい一心で顔を上げると、社長の後ろから、花束贈呈役の社員が姿を現す。


その顔を見て、僕は目を瞬かせた。


田崎
「久しぶり」

小さなブーケを持って微笑んでいたのは……、田崎さん、だった。

あれ? MVPの人は??


田崎
「おめでとう、笛木くん」
笛木
「あ……ありがとうございます……?」

頑張ってとか、また飲みに行こうとか、他にもなにか言われた気がするけど、僕はぼんやりとお礼を言って、花を受け取るだけで精一杯だった。

MVP受賞者。え?! まさか、田崎さんが?!

表彰式が終わり、ようやく我に返って会場中を探したが、もう田崎さんの姿はどこにもなかった。


宴会もそこそこに営業所に戻る。みんなの祝福の言葉を適当にあしらって、パソコンで会社の社員用掲示板にログインした。


今まで自分には縁遠いものだと思って見たこともなかった、「歴代受賞者一覧」というフォルダを開いて、思わず「うわっ」と声を上げてしまった。



田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治。


去年のありとあらゆる受賞者の欄に、「田崎幸治」の名前がビッシリと並んでいた。


思わずスマホを取り出し、田崎さんに電話する。が、繋がらない。

イライラとかけ直しながら、その前年の受賞者ページにジャンプする。


田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治。


電話は全然繋がらない。その前年、さらに前年、とページをめくる。


田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治。


わかったことはただひとつ。ここ数年のほとんどの賞を、田崎さんが総ナメにしているということだった。


懲りずに今度は本社にかけてみる。


事務の女性
「はい、業務管理部です」
笛木
「第七営業所の笛木ですが」
事務の女性
「あら、先ほどはおめでとうございました。もう営業所に戻ったの?」
笛木
「あの! 今日、田崎さんは……」
事務の女性
「田崎さん? 表彰式の後、早退すると言って帰られましたよ」

いちおう事務方なのに、そんなこと許されるのか。僕は呆然と電話を切る。


あの飲み屋なら会えるだろうか。田崎さんと飲んだおでんの店。

カバンを掴むと弾かれたように立ち上がり、『割烹 おた恵』へ向かった。


ビジネス街は、気忙しい歳末の空気を漂わせている。店があるのはこのビル群のすぐ先のエリアだ。店に行くとき以外、このあたりにはめったに立ち入らない。他の大手不動産会社の自社ビルが密集しているから、なんとなくここは自分のテリトリーじゃないと思ってしまう……。


寒風に白い息を漏らしながら先を急いでいた僕は、ふと、見慣れた後ろ姿が見えた気がして立ち止まった。


田崎さんだ。目の前のビルから出てきたのは、間違いなく田崎さんだった。大声で呼びかけようとして、すぐに言葉を呑み込む。


田崎さんのすぐ後ろに続いて、ここの会社の社員らしい人が数人、ぞろぞろと出てきたのだ。田崎さんが向き直ると、一番偉そうな人が進み出て、固い握手をした。互いに微笑んで二言三言、言葉を交わすと、他の社員が一斉にお辞儀する。


ただ営業しに訪ねて来たにしては、なんだか異様な光景だった。そもそも田崎さんは営業マンじゃない。じゃあ一体、ここになにをしに来たのだろう——。


不思議に思いながらさらに数歩近づいて、ビルの入り口に書かれている社名を見るや否や、頭から冷や水を浴びせられたような気分で立ち尽くした。



『第一不動産販売』


それは、業界最大手の不動産会社の名前だった。


——僕、社内でも嫌われてるからさ。


ふたりで飲んだとき、田崎さんが言った言葉が頭の中によみがえる。

まさか。まさか、田崎さん。


足に根が張ったようにその場から動けなくなり、僕はただただ田崎さんの姿を見送った。気温がぐんと下がったような気がする。小さくなる後ろ姿は、そっくりそのまま、僕らの心の距離を表すかのようだった。


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