第2話:〜書類がない家と厄介なライバル編〜

  第2話:〜書類がない家と厄介なライバル編〜

新人賞を獲得した笛木の次の取引相手は、一見普通な4人家族。しかし、次々と出てくる問題や立ちはだかる強敵。いつもアドバイスもくれた謎の先輩田崎さんとも連絡を取れない状況で、笛木を救ったのは?

あやこあにぃ
【執筆・監修】あやこあにぃ

かつては測量コンサルタントで地図を作っていたが、文章で食べていく夢を叶えようと決意。Webライター&作家に転身し、インタビュー記事やコラム記事のほか、小説も執筆。主な受賞歴に、公募ガイド「小説でもどうぞ」第18回佳作、第9回ブックショートアワード12月期優秀賞など。

【保有資格】測量士

年末年始の休みがあけて早々。
僕、笛木友也(ふえきともや)は花枝不動産の本社にいた。いや、決してなにかしでかしたわけじゃない。新しい勤怠システムの使い方を説明するとかなんとかで、ほかの営業所の同期らと一緒に研修に呼び出されたのだ。



かなり早く着いてしまって、談話室の自販機でコーヒーを買った。ソファに座ってスマホを眺めるものの、目が滑るというか、ぜんぜん内容が頭に入ってこない。それもこれも田崎さんのせいだ。


営業所に急に現れて、なにかと面倒を見てくれるようになった先輩の田崎さん。


若くして業務管理部に左遷されたというから、仕事ができない人なのかと思いきや、その正体は、昨年まで営業成績トップのスーパーセールスマンだった。それだけでもびっくりだけど、一番の問題は……。


田崎
「おっ、笛木くんじゃないか」

聞き慣れた声に、弾かれたように顔を上げた。いつの間に入ってきたのだろう、目の前に立っていたのは、田崎さんその人だった。しかもなぜかマスクをしている。


田崎
「あけましておめでとう」
笛木
「あけまして……おめでとうございます……風邪ですか?」
田崎
「うん、ちょっとね。そっか、今日は研修だよね、勤怠システムの」
笛木
「よく知ってますね……っていうか田崎さん」
田崎
「どうかした? 浮かない顔して」

不思議そうな田崎さんに、僕は思い切って聞いた。


笛木
「田崎さん、年末、第一不動産にいましたよね?」

休暇に入る直前、僕は偶然にも、業界最大手・第一不動産販売の自社ビルから現れた田崎さんを目撃してしまったのだ。


ぐっ……とにらみつけるように見つめる。が、田崎さんは顔色ひとつ変えないばかりか、あっさりとうなずいた。


田崎
「うん、いたよ」
笛木
「なんでです? 田崎さん、営業でもないのに。まさか、転——」

転職、と言いかけたのを呑み込む。別の会社へいくなんて、今どき珍しいことでもなんでもない。ましてや、僕は田崎さんになにかを言える立場でもない。わかってはいるけれど。

僕の動揺を見透かすかのように、田崎さんは微笑んだ。


田崎
「実はね」
笛木
「はい」
田崎
「昔、お世話になった先輩があの会社にいるんだ」
笛木
「は、先輩?」
田崎
「笛木くん、見たんだよね、僕の過去の営業成績」
笛木
「そうだ、それも聞きたかったんですよ」

会社の社員用掲示板で見た営業成績者表彰の「歴代受賞者一覧」。新人賞に始まり、四半期表彰、年度末表彰……。これまでのありとあらゆる受賞者の欄に並んでいた「田崎幸治(たさきこうじ)」の名前。


そもそも僕が第一不動産のビルの前を通ったのも、この信じられない成績に驚いて田崎さんを探していたからだったんだ、今思い出したけど!



笛木
「なんですか、あのすごい成績。田崎さん、何者なんですか? なんで今、業務管理なんかやらされてるんです?」
田崎
「馬鹿にしちゃいけないよ、業務だって大事な仕事のひとつなんだから」
笛木
「はぐらかさないでくださいよ」

思わず大きな声を出すと、田崎さんは、ふぅとため息をついた。


田崎
「昔、僕に営業のイロハを教えてくれた先輩がいてね。あの成績は、その人のおかげなんだ」
笛木
「え……」

僕は驚きを隠せずに瞬きした。


田崎さんにも誰かに教えをこうような時期があったんだ。正直、ただの天才かと……。


笛木
「あ、じゃあその先輩が……?」
田崎
「そう。転職して第一不動産で働いていて、ちょっと年末の挨拶に」
笛木
「田崎さんが握手してた人ですか」
田崎
「そんなとこも見てたの?」

田崎さんはハハハ、と笑って、そうだよ、とうなずいた。


笛木
「それだったらそのへんの飲み屋で会えばいいのに」
田崎
「先輩も忙しい人だからね。いつも会議の合間に時間を取ってもらって遊びに行ってるわけ」

ずいぶん仲がいいんだな。よっぽど世話になった先輩なのだろう。
でも、他人の過去を詮索するのもどうかと思って、僕はいったん口をつぐんだ。



田崎
「あ、そうそう、今日は営業所に戻る?」
笛木
「戻りますよ」
田崎
「じゃあちょうどよかった。これ、今月のタクツウ。所内で回覧しといて」

言いながら足元のヨレた紙袋から取り出したのは、月刊住宅流通……通称タクツウ。不動産の最新情報がいろいろ載っている業界誌だ。どうやらこれから各営業所へ配りに行くらしい。一冊、ポイっと僕の手に押しつけると、田崎さんはそれじゃまたねと、きびすを返して談話室を出て行った。




指定された会議室に入り、後ろのほうの席に座った。壁時計を見上げれば、まだ20分ほど時間がある。することもなかったので、さっき渡されたタクツウを開いた。毎月事務所に届いているのは知っていて、回覧も回ってくるけれど、……実は過去に数回しか読んだことがない。


『新年特集号・不動産業界のトップを走りつづけるために』


ページをめくると、いきなり大きな見出しが「ドン!」と目に入り、思わずのけぞってしまった。太字のゴシック体の横では、腕組みをした男性が不敵な笑みを浮かべている。


『株式会社スターホーム 松井星一(まついせいいち)


30代後半くらいだろうか。上品なグレーのスーツに身を包み、左袖からは高級そうな腕時計がチラリと覗いている。髪をビシッと整えた隙のない姿は、いかにもデキる営業マンといった感じだ。


実際、この「松井星一」サンは、業界屈指のトップセールスマンらしい。インタビュー記事には、この人がスターホームに中途入社してから、いかにして今の地位を築いたかが詳細に書かれていた。


お客さん一人ひとりに向き合って、ときには大胆な提案もすること、要望に的確にお応えするために根回しや努力を欠かさないこと……。とにかく熱い人であることが伝わってきて、正月休みでボヤけた頭がカッと目覚めるような感じがした。


「仕事へのこだわり」の段落を読みふけった後、ふとなにかがひっかかって、僕は首をかしげた。


なんだか、どこかで読んだことがある内容のような気がしたのだ。どこだろう。会社に入ったばかりのころ? いや違う、もっと前だ——。


谷江
「おはよ、ふっきー」


顔を上げると、同期の谷江俊哉(たにえしゅんや)が前の席を陣取っていた。花枝不動産 第八営業所の所属で、僕がいる第七営業所からそんなに遠くないので、たまに仕事終わりに飲みに行く仲だ。僕のことを、唯一「ふっきー」とあだ名で呼ぶやつでもある。


谷江
「新年早々研修とか、ダルいよね〜」

だよな、と返しつつ、さっきまで閑散としていた会議室が、いつの間にかほぼ満席になっていることに気づく。


谷江
「ていうかふっきー、なに読んでんの? ……うわタクツウじゃん。まじめかよ」

谷江は、「さすが四半期表彰取るやつは違う」だのなんだの、嬉しそうだ。


谷江
「このままいけば、年度末の新人賞もイケるんじゃないの?」

同期をライバル視して競い合う人もいると聞くけれど、谷江はいつもマイペースだ。嫉妬も嫌味もまったくない、純粋な口調で言われて、僕は思わず視線を落とした。


笛木
「いやいや、ムリだって」
谷江
「なんでだよぉ、みんな噂してるよ、あの笛木が開花したって」

なんだよ開花って。勝手な噂を立てないでくれ。
だいいち、僕が四半期表彰をもらったのだって、運が良かっただけだし、なにより田崎さんの助言があったからに過ぎないし。


下を向いて黙り込んでいると、谷江はタクツウを読んでいると勘違いしたようだ。僕の手元をのぞきこみ、「あっ、松井さんじゃん」と声を上げた。


谷江
「一回、社外イベントで会ったことがあるけど、すっごいオーラ満点の人だったな」
笛木
「へぇ、やっぱり有名な人なのか」
谷江
「ちょ、ふっきー、まさか、松井さんをこれ読んで知ったとか言わないよね?」
笛木
「いや、いま知った……」

僕の言葉に、谷江は「はぁー?」と素っ頓狂な声を上げる。


谷江
「いいかふっきー。松井星一さんは、業界の超有名人。そうじゃなくても、花枝不動産の人間なら、みーーーんな知ってて当たり前なの。他社だけど、他社の人じゃないから!」
笛木
「? どういうことだよ」
谷江
「うちの元エースなんだよ! 松井さんは!」
笛木
「エース?」
谷江
「要は、花枝不動産からスターホームに転職した人なの!」
笛木
「へぇ」

そうなのか。
僕は、松井さんの自信たっぷりな顔をまじまじと見つめた。


谷江
「そういえばふっきー、田崎さん? だっけ? あの人とたまに飲みに行ってるって言ってなかったっけ?」

さっき喋った人の名前が急に会話に出てきて、思わず顔を上げる。


笛木
「そうだけど?」
谷江
「同期らしいんだよね、その田崎さんと松井さんって」

同期。僕が目を瞬かせると、谷江は憐れむような表情を浮かべた。


谷江
「同じ同期なのにさ、片や業界のエース、片や会社の嫌われもの。世知辛いよなぁ」
笛木
「嫌われもの?」
谷江
「……お前ってなんでそう情報に疎いの? 田崎さんも確か、すごい営業マンだったらしいじゃん。でも、今はぜんぜん目立たないし、話に出てきても悪い噂しか聞かないし。社内をふらふらしてるとか、上司に刃向かったとか」

ふらふらはうなずけるけど、刃向かったなんて話は初めて聞いた。そういえば、田崎さん自身もずっと前に、「僕、社内でも嫌われてるから」みたいなことを言っていた気がする。僕はますます目をしぱしぱさせてしまった。いったい、どういうことなんだ……?




その電話がかかってきたのは、研修を終え、事務所に戻ったときだった。


高水ハウスB
「どうも、あけましておめでとうございます、笛木さん」
笛木
「わぁ、今年もよろしくお願いします」

以前、住宅展示場の草刈りを手伝った高水ハウスの人だった。そのお礼にとお客さんを紹介してもらって以来だから、かなり久しぶりだ。


住宅展示場

複数の戸建住宅を実際に建築して展示する場所を指します。複数の住宅メーカーが共同で展示する場合が多く、来場客に比較検討させる意図で作られています。来場客に家族連れが多いため、子ども向けイベントが開催されていることも多いです。


笛木
「その節はお世話になりました」
高水ハウスB
「どうもどうも、こちらこそ。ところでね、ちょっと困っていることがあって」
笛木
「困っていること?」
高水ハウスB
「うちで家を建ててくださったお客さまがいるんですが。新居に移るまでに、今の住まいの売却の決済引き渡しを完了しないといけないのに、売れる気配がなくて……」
笛木
「家の完成はいつなんですか……?」
高水ハウスB
「4月です。だから、年度内には売りたい感じで。そこでなんですが、笛木さん……」
笛木
「は、はい」
高水ハウスB
「その物件の売却を、お願いすることはできないでしょうか……?」

電話の向こうの今にも消え入りそうな声に、とてもじゃないけれど、「いやです」とは言えなかった。


笛木
「わ、わかりました。詳細聞かせてもらえますか?」
高水ハウスB
「助かります……! ツテのあるほかの不動産屋さんには全部断られてしまったので……」

ぜ、全部断られた……?
なんだか嫌な予感がして、僕はゴクリと唾を呑み込んだ。




次の週末、さっそく教えてもらった物件を訪ねた。地下鉄の駅から地上へ出て、スマホで地図を見ながら、狭い歩道をてくてく歩く。経路図を見るに、駅から物件まではたったの5分。なかなかの高立地じゃないか。なんで売れないんだ……。


内心首をかしげながら歩いているうちに、ほどなくして目的の物件にたどり着いた。


外観も、まったくもって普通というか、むしろおしゃれな一軒家だ。あとは壁の色とか、変な木が植えてあるとか、そういう見た目からしてヤバそうななにかがあったらどうしようかと思っていたけれど、ざっとみたところ特にそんな感じでもない。


ますます売れない原因がわからないな。さらに深く首をかしげながら、インターホンを押した。


亮太
「こんにちは」

出迎えてくれたのは、40代前半くらいの、これまた普通のご夫婦だった。人の良さそうな旦那さんと、ショートカットで明るい印象の奥さん。腕の中には、2歳くらいの女の子。


よかった、クセの強い売主だったらどうしようかと思った。
ひとまず安心して、挨拶をしようとした、そのとき。


男の子
「ぷっぷー!」
笛木
「?!」

玄関に上がりかけた僕の背後で、甲高い声が響いた。振り返ると、小さな男の子が仁王立ちしている。


男の子
「ぷっぷっぷー!!」

なんだろう、クラクションのマネ?
どうやら「玄関に入りたいから、どけ」と言っているらしい。


久美
「こぉら達輝(たつき)、失礼でしょう! お庭遊びはもういいの?」


奥さんに怒られて、ぷうっと頬を膨らませた男の子は、僕の脇を無言でするりとすり抜けた。小さな運動靴をパッと脱ぎ散らかして、そのまま廊下の奥へ走っていく。
「こらっ! お靴はそろえなさい!」と声を張り上げる奥さんの隣で、旦那さんが頭を下げた。


亮太
「すみません、わんぱくで」
笛木
「いえいえ……」
亮太
「どうぞ、上がってください」

促されるままリビングへ入った、次の瞬間、


笛木
「いてぇっ!」
久美
「どうされま……わっ、すみません」
笛木
「いっ……ウッ……いえいえっ……」

ドアのところで悶絶している僕に、今度は奥さんが慌てた様子で謝る。涙目で見下ろした足元には、小さなおもちゃのブロックが散らばっていた。あ、足ツボが刺激される鋭い痛み……!


久美
「達輝! お片づけしなさい! 達輝ー!」
亮太
「すみません、散らかってて。少しお待ちください」

はい、と空返事しつつ見回した部屋は、一言でいうと、ひどい惨状だった。


僕が立っている場所の左手はリビング、右手はカウンターキッチンつきのダイニング。正面には壁に沿うように階段があって、中二階風のロフトに繋がっている。


カウンターキッチン

カウンターキッチンとは、キッチンとダイニングルームとの間にカウンターが付いているキッチンのことを指します。カウンターの設置方法には、ダイニングとの仕切り壁に大きな窓を開けてカウンターを置くタイプや、元々仕切りがないオープンスタイルのキッチンにカウンターを設置するタイプがあります。


床には、いま踏んだブロックをはじめ、ぬいぐるみやらパズルやらミニカーやらが、所狭しと散乱している。リビングのソファーの上には洗濯物が山と積まれ、部屋の隅の観葉植物は茶色く萎れて枯れている。窓の外に目をやれば、ビニールシートが無造作にかけられたタイヤや、もう使っていないであろう電化製品に家具などが軒下に乱雑に並び、その向こうには、雑草が生え放題の小さな庭が広がる。


カーテンは半分はずれた状態で垂れ下がっており、壁にはクレヨンの落書き。赤や青の小さな丸がその周りをいろどっているので、なんだろうと近づいてみると、小さなスタンプだった。文房具セットに付いてくるような「よくできました」スタンプがびっしりと……。


亮太
「それ、この前、上の子がいつの間にか押しまくっちゃって」

しげしげ壁を眺めていると、後ろで旦那さんが言った。


振り返れば、昼ごはんの残骸らしき食器を下げている真っ最中だった。


久美
「もうほんと困っちゃう。そういうのも家の価値が下がる原因になるんでしょうか」
笛木
「まぁ、壁紙は……貼り替えればなんとか……」

すごく費用がかかりそうだけど……。


亮太
「お待たせしました。どうぞこちらに」
久美
「うち、年じゅう麦茶なんです。冬なのにすみません」

グラスに冷たいお茶を注ぎながら言われ、「お構いなく」と答えつつ案内されたダイニングテーブルの一席に腰掛けた。正面に旦那さん、奥さんがすぐ側のいわゆるお誕生日席のベビーチェアに女の子を座らせてから、僕の斜向かいに腰掛けた。


笛木
「本日はお時間いただきまして。花枝不動産の笛木と申します」
亮太
「改めまして、島田亮太(しまだりょうた)と言います」
久美
島田久美(しまだくみ)です。それから、この子は美菜(みな)」
美菜
「まんま!」

自分の名前が呼ばれたのがわかったのか、美菜ちゃんが声を上げた。ほんのり赤いほっぺたがぷくぷくしていて、思わず触りたくなってしまう。この子を見て笑顔にならない人間なんて、この世にいないだろう。ぎゅっと抱きしめて守りたくなる愛らしさで、美菜ちゃんは、きゃはっとごきげんに笑い声を上げた。


笛木
「か、かわいいですね……! 何歳ですか?」
亮太
「2歳になったばかりです」
久美
「あとは……、達輝ー! こっちおいでー!」

久美さんが呼びかけると、いつの間に上に登っていたのだろう、達輝くんがロフト階段を3段ほど下りてきた。


久美
「なにしてるの、こっちに来なさい」
達輝
「やだ」
亮太
「すみません。息子の、5歳です」
笛木
「こ、こんにちは〜」

達輝くんは、僕の腰の引けた挨拶には応じず、じっとこちらを見て、不機嫌に言った。


達輝
「そこ、ぼくのせき」
笛木
「えっ、あ、すみません」

思わず敬語を使ってしまう僕。


久美
「仕方ないでしょ。今だけお兄さんに貸してあげて」

達輝くんは、ぷうっと頬をふくらませると、そのままダンダンという激しい足音とともに、再びロフトへ上がって行ってしまった。


笛木
「あの、僕、空気椅子でも……」

恐る恐る申し出ると、達輝くんが姿を消した方向に険しい表情を向けていた奥さんが、ぷはっと吹き出した。その隣で旦那さんも笑顔になる。


亮太
「とんでもない、気にしないでください」


笑いながら言われて、僕は「じゃあ」と話を始めることにした。


笛木
「えぇと、それではそもそもの話なのですが、なぜお引っ越しを? 新居もすぐ近くだと聞いていますが」
亮太
「下の子ができたときから引っ越しの話はずっとしていたんですよ。3人ならまだいいけど、4人だと狭いねって」
久美
「でも生まれたらそれどころじゃなかったし、私も割とすぐに職場復帰したしで、ずっと先延ばしになっていたんですけど……」
笛木
「なるほど。共働きなんですね」
久美
「そうなんですよ。しかも最近、達輝がものすごくやんちゃになってきて……」
亮太
「うち、こんな作りなので、危なすぎるね、という話になって……それで、いい加減引っ越ししようと」


みんなでロフト階段に目をやる。確かに、デザイン重視の手すりのない階段は、子どもにはかなり危険そうだ。


久美
「それで、近くに良さそうな土地が売りに出ていたので、今しかないと思って思い切って買ったんです」
亮太
「たぶん聞いていただいているかとは思うのですが、次の家の買い替えローンの関係で、売却期限と最低売却額が決まっちゃってて」

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高水ハウスの人も、同じことを言ってたな。つまり、新しい家が完成して、新居の住宅ローンを実行するまでに、この家の売却の決済と引き渡しまでを全て完了する必要がある、ということらしい。


久美
「なんとか、早く売ってもらいたくて……この家が残債を上回る金額で売れないと、小さな子どももいるし、いくら貯えがあるとはいえちょっときつくて」
笛木
「そう、ですよね」

小さくうなずく僕の顔を、島田さんは真剣な表情で見つめた。


亮太
「高水ハウスさんの紹介で来てもらったということだから、今回、他社には売却をお願いせず、花枝不動産さんとのみ契約をさせてもらおうかと思っています。えっと、なんていうんだっけ、こういうの」
久美
「専任媒介ね。不動産屋さんとあちこち契約するんじゃなくて、一社だけに売却をお願いするっていう」
笛木
「! ありがとうございます」
亮太
「どうか少しでもいい条件で、買主さんを見つけていただきたく」
笛木
「頑張ります」

専任媒介

専任媒介契約は媒介契約の1種で、依頼した不動産仲介業者(宅地建物取引業者)以外と契約を結ぶことができない契約です。しかし、依頼者が自ら取引相手を見つけて契約を結ぶことは可能です。契約を結んだ業者は2週間に一度の活動報告を行う必要があるため、比較的積極的に取引成立に向けて努力することが期待できます。


南向き一戸建ての2LDK、小さいけれど庭付き、駅近徒歩5分。駐車場も1台分ついていて、周りにはスーパーやコンビニ、小中学校に病院もある。1月だし、新年度に向けて家探しをする人も増える時期だ。正直、売れない理由が見つからない。


ラッキー! とそのときは思った。
高水ハウスの人が、「ツテのあるほかの不動産屋さんには全部断られてしまったので……」と言っていたことなんて、すっかり忘れて。



それから数週間後。


笛木
(ヤバい……!)

僕は営業所で頭を抱えていた。


予想通り、島田家にはひっきりなしに内見の問い合わせが入った。なのにみんな、家の中を見た瞬間に「あー……」という表情になる。


そして帰り道にはだいたい、「中が汚すぎて住める気がしない」と言う。「片づければいい家ですよ!」と説得するものの、第一印象というのは想像以上に大事らしい。今のところ、10人中8人には即断られている状況だった。


で、残る2人の商談が進むかというと、そういうわけでもない。なぜならあの家には、重大な欠陥があったんだ……。


田崎
「やあ、笛木くん」

聞き慣れた声に振り返ると、田崎さんが立っていた。相変わらずマスクをしている。



郵便だよ、と封筒を手渡された。どうやらこれを営業所に届けに来たらしい。


田崎
「なんか困りごと? 顔色悪いけど」
笛木
「それが……」

これまでの経緯を話すと、田崎さんは僕の隣の空き席を陣取った。一通り資料に目を通して、呆れ顔になる。


田崎
「笛木くんって、こういうヘンな案件引き当てる天才だね」
笛木
「そんなこと言わないでくださいよ……」
田崎
「この売主さんってかなりのお金持ち?」
笛木
「たぶん……土地を先に現金で買ったみたいだし……」
田崎
「だよね。土地に出すお金をもう少し減らせば、たぶんこんなに困ることはなかっただろうな。土地代につぎ込んでしまって家を建てるお金がないって、本末転倒だよね」


田崎さんは、さらにページをめくる。


田崎
「新居ができるまでに絶対に売却を済ませないといけない内容でローンを組んでるのか。約定決済日はいつなの?」
笛木
「ヤクジョウケッサイビ?」
田崎
「売却期限のこと」
笛木
「あ……3月末です」

田崎さんは、3月か、と繰り返して、項目のひとつを指さした。


金消契約

金消契約とは「金銭消費貸借契約」の略で、銀行から住宅ローンを受ける際に銀行と結ぶ契約のことを指します。住宅購入時には、不動産売買に関する契約と並行して、この金消契約の手続きも引き渡しまでに行われることが一般的です。

融資実行日

住宅ローンの融資実行日とは、金融機関から借り入れた住宅ローンが実際に口座に振り込まれる日のことを指します。抵当権を設定する目的で通常は物件の引き渡しと同日に設定されるため、引き渡しが完了したタイミングで住宅ローンの担保になっているケースがほとんどです。

田崎
「引き渡し猶予特約』を希望してるんだね」
笛木
「この特約って、本来は前もって引っ越しを済ませて売却するところを、売却後に買主に少し待ってもらって引っ越しする……ってことなんですよね?」
田崎
「そうそう。買主に引き渡しを待ってもらって引っ越しを1回にする特約だね。子どもがいるから2回の引っ越しが負担というのもあるだろうし、そもそも2回分の引っ越し資金を残していなかったのかもしれないけど」
笛木
「前もって引っ越さなくてもいいというのが、いま内見のアダになってるんですけど……」
田崎
「でもさっき笛木くん、10人中2人は商談に進むって言ったよね」
笛木
「それがですね……」

引き渡し猶予

不動産の引き渡し猶予とは、実際に買主に物件を引き渡す日を、代金支払い日から遅らせてもらうことを指します。通常は引き渡しの前日までに引っ越しを完了し、当日は空き家の状態にしておくことが一般的ですが、それができない場合のために、例外的に売主が引っ越すまでの数日間を買主に待ってもらうための特約になります。


田崎さんから資料を取り上げて、僕は最後のほうのページを見せた。


笛木
「この家、測量関係の資料が……ないんですよ……」

田崎さんは、ゲホゲホゲホと激しく咳き込んで、


田崎
「ない?」
笛木
「土地の確定測量図もないし、境界確認書もないしで……。その説明をすると、たいていの内見希望者はやっぱりいいですと帰られる始末で」

田崎さんは、再び「ない」と口の中でつぶやいて、文字を目で追っている。


笛木
「売却をするときは、面積を明確にしたり、隣地との境界をハッキリさせるためにも測量が必要なんですよね? でも、売主さんが自分で業者を雇って測量するとなるとそれなりに費用がかかるじゃないですか。なので、できればこのままの状態で売ってしまいたいと言われてまして」
田崎
「笛木くん」
笛木
「はい」
田崎
「やっぱきみ天才だね。こんなめんどくさい案件、久々に見たよ」

確定測量図

確定測量図とは、土地の境界を完全に確定させた測量図のことを指します。土地には「境界」を示す境界杭が埋まっており、それを元に土地の価値を決めているため、確定測量図は不動産売買において非常に大切な資料です。


そんな不名誉な天才いりませんよっと反論したいところだけど、残念なことにグゥの根も出ない。


田崎
「で、笛木くんの戦略は?」
笛木
「えっと……。戦略というか、個人の買い手を一生懸命探すしかないかなと」
田崎
「個人。買取業者には頼まないってこと?」
笛木
「だって、不動産買取だと、かなり値段が安くなるんですよね? それなら多少時間がかかっても、少しでも高く売ったほうがいいと思うし」

関連記事:不動産会社に「買取」はいいのか?自宅を不動産会社に買い取ってもらうメリット・デメリット


田崎さんは、「ふーん」と興味深げな顔をした。こちらの目を見て、なにかを言いかけ、ぐっと我慢するかのように口を閉じる。


そして、僕の肩をぽんと叩くと立ち上がった。


田崎
「まぁ頑張って」
笛木
「うぅ……正直けっこう手詰まりなんですけど。掃除とかしに行けばいいんですかね」
田崎
「ご夫婦ともに日中はお仕事なんでしょ。土日は内見が入ってるんだろうし」
笛木
「そうなんです……」

きゅっと口を引き結ぶ僕に、田崎さんが再びなにか言いたげな顔をして、ひとりで首を横に振る。


笛木
「なんです?」
田崎
「いや、ごめん。なんでもないよ。……とにかく、今回の案件は、きっとお子さんがカギになるだろうね」
笛木
「お子さんが?」

首をかしげたけれど、田崎さんは「じゃあね」と手をひらひら振りながら、さっさと営業所内から出て行ってしまった。ゲホゲホという咳が遠ざかっていく。


冷たいな、もうちょっとアドバイスくれたって……なんて一瞬思ったけど、いやいや、と思い直す。そもそもこれは僕の案件なんだ、もう少し自分で頑張らないとな。




2月。特大寒波の中、その日も僕は、内見の問い合わせのあったご家族を島田家に案内していた。60代くらいのご夫婦は、外観を見て「あらすてき」とテンションが上がったように見えた。が、散らかった家に入った瞬間、「うわ」という顔になる。


家は相変わらずの状態だ。売る気があるなら、正直もう少し頑張って片づけてほしい。部屋の隅では、島田夫婦がひっそり立っている。ふたりとも、この1か月でずいぶんやつれたような気がした。


案内しようとしたけれど、ふたりが自分で内見に付き添うというので、僕はひとりで待っていることになった。


玄関で手持ち無沙汰にたたずんでいると、たたたたた、と軽い足音とともに、廊下の奥から美菜ちゃんが駆け寄ってくる。


美菜
「どじょ!」

しゃがんで目線を合わせると、満面の笑みで小さなくまのぬいぐるみを渡された。


笛木
「あ、ありがとう〜」

お礼とともに受け取る。すると美菜ちゃんは、きゃはきゃは笑いながらリビングの中へ消えた。と思ったら、すぐに戻ってきて、


美菜
「どじょ!」

今度はねこのぬいぐるみを渡される。


笛木
「あ、ありがとう〜」

きゃはきゃはきゃは。


美菜
「どじょ!」

これが延々と繰り返され、気づけば僕は、くま、ねこ、キリン、いぬ、とりの5種類のぬいぐるみを抱きしめていた。


かわいい……。かわいいけど、いつまで続くんだろう……。


達輝
「みな。だめ」

今度はキツネのぬいぐるみを渡そうとしている美菜ちゃんの後ろから、幼い声が響いた。
見れば、リビングの扉から達輝くんが顔を出している。


美菜
「どじょ!」
達輝
「だめだってば」
美菜
「や!」

勢いよく近寄ってきて、美菜ちゃんの手の中からキツネを奪い取る。僕の目の前で美菜ちゃんの表情がたちまち曇った。


美菜
「やーっ! やーーーっ!!」
達輝
「だめ。きつねさんおいてきて」
美菜
「わぁぁぁぁぁん! まんまー!!」

美菜ちゃんは、達輝くんの手からキツネのぬいぐるみを奪い取ると、大声で泣きながら奥の部屋に向かって走って行った。
ちょっと美菜なんで泣いてるの、と久美さんの困惑した声が聞こえてくる。美菜ちゃんの泣き声のほうへ視線を送り、きゅっと口を引き結んだ達輝くんが、こちらに向き直る。


達輝
「かえして」

玄関先でぬいぐるみを抱えたまましゃがんでいる僕から、乱暴にぬいぐるみを奪い取り、小さな腕の中に抱えてリビングに入って行った。


笛木
「あっ、達輝くん! ねこさんが落ちたよ! 達輝くーん!」

僕は目の前でころんと転がったねこのぬいぐるみを拾い上げて、靴を脱いだ。ロフトに続く階段を駆け上がる達輝くんを追いかける。どうやらロフトスペースは、子ども部屋になっているようだ。


達輝
「たちいりきんし!」

ロフトを覗くと、目の前に立ちはだかる達輝くん。


笛木
「ごめんごめん、はいこれ、ねこさん」

ぱっとぬいぐるみを受け取って、隅の棚の上に置きにいく小さな背中を目で追った僕は、思わず声をあげた。



笛木
「わ、折り紙たくさん」

棚のそばの壁には、折り紙で作った恐竜やかぶと、魚などが20種類くらい貼り付けられていた。


笛木
「達輝くんが折ったの?」
達輝
「ん」
笛木
「すごいねー!」

僕がお世辞抜きの感想を述べると、達輝くんはちょっと赤くなった。お菓子の缶を手にもじもじと近づいて来て、目の前でぱかっと開ける。中には、色とりどりの折り紙作品がたくさん入っていた。


達輝
「これはカメラ。こっちはカエル」

取り出して見せてくれるのに「へぇ」「ほぉ」といちいちリアクションしていたら、達輝くんはすっかりテンションが上がってしまったらしく、棚のほうから2つ目の缶を持ってきた。


きょうだいそろっていろいろ見せてくれるのはとっても嬉しい、嬉しいけど、ロフト階段にしゃがんだままのせいか、だんだん腰が痛くなってきた……。


亮太
「笛木さん、そんなところでなにして……あっ、達輝、やめなさい、お兄さん困ってるだろ」
笛木
「あ、いえいえ〜全然……」

島田さんが部屋に入って来てちょっとほっとしたのも束の間、買主候補のご夫婦のテンションの下がり切った表情を見て、ヒヤリと肝が冷える。その顔からは、散らかったリビングを見て「汚っ」と思っているのが見てとれた。


亮太
「以上でお部屋は全てです。あ、まだロフトがあった。ご覧になりますか?」

ご夫婦は僕がしゃがみこんでいる手すりのないロフト階段を上から下まで眺め、「結構です」と言った。誰が見ても買う気がなさそうな反応。またダメか……。


内見を終えたご夫婦が逃げるように家を出て行った後、旦那さんがぽつりと言った。


亮太
「きっと、あの方もダメですよね」
笛木
「あー……、はい、でも、来週以降もコンスタントに内見のご予約をいただいていますし……」
久美
「すみません、私たちももっと片付けて売れるようにしたいんですが、子どもたちもいるし、日々の生活で手一杯で」
笛木
「いやいや……」
亮太
「そんなわけなので、笛木さん」


一段と真剣な声色で呼ばれ、僕は言葉を止めて島田夫婦の顔を見た。ふたりとも、さっきより一段と青白く、切羽詰まったような表情を浮かべている。


亮太
「売れないのは、こちらにも責任があるのはわかっています。でも、もう売却の期限まで2か月もありません。そこで、大変申し訳ないのですが……、ここからは、専任媒介を取りやめたいんです」

それってつまり……。僕は黙って、生唾を呑み込んだ。


亮太
「一般媒介に切り替えて、ほかの不動産会社さんにも売却を依頼したい、と思いまして」
笛木
「ちょっと待ってください、毎週のように内見予約は入っていますし、あともう少し頑張れば、きっと」
久美
「ごめんなさい」

一般媒介

一般媒介契約は媒介契約の1種で、依頼者が複数の不動産仲介業者(宅地建物取引業者)と重複して依頼ができる契約のことです。また、自ら取引相手を探して売買や賃貸借契約を結ぶこともできます。この契約には依頼した他の宅地建物取引業者について明示する必要のある明示型と、その必要のない非明示型の2パターンが存在します。


追い縋る僕に、奥さんが申し訳なさそうに、でもきっぱりと言った。


久美
「もう、時間がないんです。どんな手段を使ってでも、とにかく、売らなきゃいけないから」

わかってください、と静かに言われると、もうなにも言えなかった。



玄関を出て、数歩歩き出し、振り返って家を見上げる。
どこで判断を間違ったのだろう。広告の出し方? 案内の仕方? それとも。
一般媒介に切り替えるのは簡単だ。僕よりずっと経験のある営業マンが入ってきたら、きっと一瞬で負けてしまう。


あぁ、終わった。


駅の方角へ向き直り、再び歩き始めようとしたとき。


達輝
「ぷっぷー!」
笛木
「うわっ」

振り返れば、いつかのように達輝くんが仁王立ちしていた。


笛木
「どうしたの、寒いからお家に入って」

慌てる僕に構わず、達輝くんはぐっと勢いよく右手を差し出す。


達輝
「これ!」
笛木
「折り紙?」


それは、緑色の折り鶴だった。


達輝
「あげる!」

達輝くんは、高らかに言い放つと、「ばいばい!」ときびすを返し、玄関へ走って行った。


手の中の不恰好な鶴をそっと広げてみる。きっと折り方も覚えたてなのだろう、いろんなところが不恰好に折れ曲がったりふくらんだりしているけれど、一生懸命折ったことが伝わってくる。


そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。次の手を考えないと。
冷たい2月の風の中で、たった今まで達輝くんの手の中にあった折り鶴は、ほのかに熱を放っているような気がした。

<ワンポイント解説>

なかなか買主が決まらず(専任)専任媒介契約を切られちゃったシーンですが、一般(一般媒介契約)に切り替えたからといって買主が見つかるとも限りません。

これが人気物件なら一般で2,3社を競わせるのは有効な手法と言えますが、そうでない場合は専任に比べ広告費なども大幅にカットされる可能性があるため、慎重な判断が必要です。



田崎
「ふーん、そうか」
笛木
「そうかって。それだけですか」

次の日の就業後、僕は田崎さんの行きつけ、『割烹 おた恵』にいた。
会社から歩いて5分ほどの、ビジネス街を抜けた路地裏にひっそりたたずむおでん屋だ。


相談がある、と飲み会を持ちかけるとテーブル席を予約してくれたものの、ここまでの流れを聞いても田崎さんの反応は薄かった。


田崎
「そりゃあ仕方がないよ、笛木くん。自分たちの家を見て、がっかりした顔で帰っていく買主候補をそう何人も見せつけられちゃね」

グビリ、と烏龍茶を一口飲んで、田崎さんは眉尻を下げた。


田崎
「諦めずに僕を頼ってくれたのは嬉しいけど、もうやり方はひとつしかないんじゃない?」
笛木
「……それってやっぱり……」
田崎
「そう。個人の買主じゃなく、買取業社を探す」
笛木
「でも、そんなことしたら、きっと買い叩かれて家の価値が下がってしまうし……怒られちゃいますよ」
田崎
「さて。どうだろうね」
笛木
「なにより、買い叩かれて家の価値が下がってしまうじゃないですか。お客さんのためにも、それは避けたいなって」

僕の言葉に、田崎さんはニコリと笑った。明らかに上機嫌になって烏龍茶を追加でオーダーする。


田崎
「今日はおごりだ、ほかにも好きなもの頼んでいいよ」
笛木
「わーい、やったー、じゃないんですよ、田崎さん」
田崎
「いやぁ、笛木くんが不動産にハマってくれて嬉しいよ」
笛木
「どういうことですか」
田崎
「好きになってきたでしょ、この仕事」
笛木
「好き……? 好きかどうかはわかんないですけど」
田崎
「僕の仕事は、不動産業界のファンをひとりでも多く増やすことだからね」
笛木
「それ出会ったころにも言ってましたね」
田崎
「そうだったかな」

店員が、おでんの盛り合わせを持って来る。テーブルの真ん中に置かれた皿を、僕のほうへ「食べな食べな」と押しやる。


笛木
「そう言う田崎さんは、今日全然食べませんね。お酒も飲まないし」

すると、田崎さんは軽い調子で「そうなんだよ〜」とうなずいた。


田崎
「風邪が悪化しててね。マスクが手放せない毎日で」
笛木
「えっ、そうだったんですか。すみません、そんなときに」
田崎
「いやいや、いいんだよ、おた恵のおでん好きだし」
笛木
「じゃあちょっと食べてくださいよ。大根とかきっと体にやさしいですよ、ほら……」


とそのとき、ガラガラ、とすぐそばの入り口の引き戸が開いた。


冷たい外気が吹き込んできて、思わず身震いする。なにげなくそっちに目をやって、手元の大根に視線を戻して、慌ててもう一度入り口の方を見た。絵に描いたような二度見をキメてしまったその先に立っていた人物が、一瞬立ち止まって驚いた顔をしてから、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。僕ではなく、田崎さんを見ながら。


松井
「よう」

冷たく呼びかけられたのに、田崎さんは「うわー!」と嬉しそうな声を上げ、拍子にゲホゲホと咳き込んだ。咳がおさまってから呼びかける。


田崎
「松井じゃないか。久しぶり」

そう、店に入って来たのは、新年早々、タクツウの誌面で見たあの松井さんだった。今日もビシッと高級そうなスーツに身を包み、胸元には星型のバッジをつけている。どうやら会社のロゴらしい。


田崎
「この前タクツウに載ってた記事読んだよ。スターホームに転職してからも調子いいみたいだね」

ニコニコしている田崎さんに対して、松井さんはものすごく不機嫌な表情になった。


松井
「も? 転職してから『も』ってなんだよ」
田崎
「だって、花枝にいたときもずっと営業成績2位をキープしてたよね」

ピキピキッと音が聞こえそうな勢いでこめかみに青筋を浮かべた松井さんは、ドンッとテーブルに両手をついた。


松井
「そうだよずっと2位だったんだ、おまえのせいでなぁ!」

タクツウの記事から感じたクールでスマートなトップセールスマンのイメージはみじんもないが、田崎さんは「えー? 僕の?」などと慣れた様子だ。


松井
「おまえがずっと1位に居座りやがるから俺は……」
田崎
「そんなこと言われてもなぁ」
松井
「他社に行って地位を築いて、ようやくお前と一騎打ちできると思った。今度は絶対に負けない。そう思ってたのに……」

松井さんはテーブルに置いた握り拳にさらに力を込めて、ギロリと田崎さんを睨んだ。


松井
「聞くところによるとお前、左遷されたらしいじゃないか。業務管理部に」
田崎
「よく知ってるね」
松井
「ふざけんな。俺がいままでどんな気持ちでお前に負け続けてきたかわかるか? なんでお前ほどのやつが業務管理なんかやってるんだ。花枝はバカの集まりなのか?」
田崎
「失礼な、業務だって大事な仕事のひとつで……」
笛木
「田崎さん、僕もそこが気になります。なんで左遷なんかされちゃったんですか」

思わず口を挟むと、松井さんは初めてこちらを見て、「もうひとりいたのか」という顔をした。僕を上から下まで眺め、田崎さんに向き直る。


松井
「よかったな、お前にも慕ってくれる後輩ができたのか」

テーブルから体を起こしてビシッと襟元を正し、律儀にも内ポケットから名刺入れを取り出すのを見て、慌てて僕もカバンを探った。



松井
「スターホームの松井と申します。どうぞよろしく」
笛木
「あっ、花枝不動産の笛木です」

僕も立ち上がって名刺を差し出すと、松井さんの片眉がピクリと動いた。


松井
「笛木……?」

視線を手元に落としたまま数秒黙りこみ、もう一度口の中で「ふえき」と呟く。そして、じろっと僕を見て、押し殺したような声を出した。


松井
「きみは……」
笛木
「は、はい……?」
松井
「きみは、田崎センパイの弟子ってことでいいのかな?」
笛木
「で、弟子? え、は、はい、そんなようなものかも……?」

圧に押されてオドオドと答えると、向かい側の席で田崎さんが「照れるなぁ」なんて呑気に笑う。やがてゆっくりと顔を上げた松井さんは、気持ちいいまでの営業スマイルを浮かべた。


松井
「田崎の弟子の実力がどんなものか、お手並拝見といこうじゃないか」
笛木
「お手並?」
松井
「まぁ、たいしたことないんだろうけどなぁ。いまや田崎センパイは業務部で腐ってんだから」

馬鹿にしたように鼻を鳴らし、ガシッと僕の右手を掴んだ。「どうぞよろしく」と、さっきと同じセリフを、今度は握手して繰り返す。そのえらく熱心な挨拶の意味を、僕はほどなくして知ることになるのだった。




田崎さんと飲んだ日の週末は、同期の新年会だった。1月は各営業所やら客先やらで飲み会が増えるので、ちょっとズラそうと誰かが言い出して2月のこの時期になった。


乾杯して早々、新年に導入された勤怠管理システムが便利すぎるという話題で持ちきりだった。


笛木
「出退勤時刻も、毎日カードリーダーに社員証かざせば自動入力されるし。今まで月終わりにタイムカード見ながらせっせとエクセルに入力してたのがバカバカしくなるよな」

僕が同意を求めると、隣の席で谷江が「そうなんだ」と呑気な口調で枝豆をかじりながら言った。


谷江
「俺、まだあの新システムの設定してないんだよね」

「「「えーっ!」」」と同期全員に非難の目を向けられる谷江。


笛木
「設定してないって、なんで。まあ確かにちょっと初期設定はめんどくさいけど……」
谷江
「だって、年明けてから忙しくてそんな余裕ないよ。業務からは年度が変わるまでに徐々に切り替えでいいって言われてるし」

羨ましい限りだ。僕だって忙しいけれど、そこまでじゃない。忘れてたけど、谷江も営業成績は悪くない。年が変わっても相変わらず好調ということなんだろう。


と、振動を感じてスーツのポケットに手を突っ込んだ。震えるスマホを取り出すと、「島田さま」と表示されている。「ちょっと電話してくる」と席を立ち、急いで店の外へ出た。



笛木
「花枝不動産、笛木です」
亮太
『こんばんは、島田です。今よろしいですか』
笛木
「はい、もちろんです。どうされました……?」
亮太
『あのですね』

旦那さんは少し言い淀むと、意を決したように早口で続ける。


亮太
『今日、別の不動産会社さんから連絡をいただきまして』

ひゅう、と一段と強い寒風が吹き抜けた。


亮太
『買取先が見つかったと』
笛木
「え」
亮太
『当初の予定よりは、かなり安いのですが……。もう、売ってしまおうかな、なんて思っています』
笛木
「ちょっと、ちょっと待ってください」

まだ一般媒介になってから数日しか経っていない。僕が一か月かけてできなかったことを、一瞬にして。


笛木
「買取先はいったい?!」

思わず大声で聞くと、旦那さんは暗い声で言った。


亮太
『どうやら個人ではなく、不動産買取業者みたいですね』

やられた……!
思わず心の中で叫ぶ。田崎さんにもアドバイスを受けたのに、僕は相変わらず個人の買手にこだわって探していた。でも、島田さんは、値段が下がって怒るどころか一瞬にして売る気になった。僕の読みが、甘かったんだ……!


笛木
「どうか、契約は待ってください! 私にもチャンスを……」
亮太
『いちおう、そのつもりでお電話したんですよ。笛木さんも頑張ってくださっていたのはわかっていたし。あんまり長くは待てませんけど』
笛木
「あ、ありがとうございます……!」

思わず店の軒先でお辞儀をしてしまう。


笛木
「参考までに聞かせてください、新しく話を持ちかけてきた不動産会社というのは……?」

えーっとね、と資料を見ているらしい物音の後、旦那さんは言った。


亮太
『スターホームの、松井さんという方です』


谷江
「どうしたふっきー。みんな心配してるよ、お前が戻ってこないって」

どれくらい時間が経っただろう。店の軒先でしゃがみこんでいると、頭上から声が降ってきた。見上げれば、谷江が出入り口の引き戸の隙間から顔を出している。


谷江
「うわ、その表情久しぶりに見た。入社して成績底辺だったころのふっきーじゃん」
笛木
「うるさいわ」

谷江は、するりと扉の隙間から出て来て、隣にしゃがみこんだ。再び「どうした?」と尋ねられ、一部始終を話す。が、ふんふんと一通り聞き終えたと同時に、「なーんだ」と笑い出す。


谷江
「まだ打つ手があるじゃん」
笛木
「え、僕の話聞いてた?」
谷江
「聞いてたよ。相手が松井さんっていうのは、確かに正直厳しいと思う。でも、親切なお客さんは、待ってくれるって言ってんだろ?」
笛木
「そうだけど。でも、業者の見当もないし……」
谷江
「そんな悩める笛木くんに、俺の同期を紹介してやろう」
笛木
「僕もお前の同期だけど」
谷江
「わかんないやつだな、大学の同期だよ」

と人差し指をビシッと立てる。


谷江
「それも、大手不動産買取業者に就職した、ね」

僕は、思わず勢いよく顔を上げた。


笛木
「いいの?!」
谷江
「もちろん。そのかわりと言っちゃなんだけど……」
笛木
「うん?」
谷江
「超便利と名高い勤怠管理システムの設定、代わりにやって」



谷江が紹介してくれたのは「雨村」さんという人だった。メールで数回やりとりをしたのち、さっそく一緒に内見に行くことになる。


待ち合わせ場所の島田家の最寄り駅に少し早めに着いて一息入れる。改札前は時間帯的に人も少ない。パンツスーツの女性に、黒いスーツを着込んだ就活生が数人。ひとりは面接に向かう途中の時間調整でもしているのか、壁を背に真っ直ぐ背筋を伸ばして履歴書らしきものに集中している。


僕も、あんなふうだったんだろうか。たった数年前のことなのに、遠い昔のような気がする。花枝不動産のホームページを見て、「先輩社員のメッセージ」に感動して。ここで働きたい! と思い、履歴書を送って……。


花枝不動産しかエントリーしなかったんだよな。ほんと正気じゃないけど。この会社でしか、働く気がなかった。


あの選択が正しかったのかはわからない。実際、現場に入ってみて営業は向いてないと心底思った。期待が大きかっただけに、ガッカリした。

でも。


——好きになってきたでしょ、この仕事。


田崎さんの言葉が耳の奥でよみがえる。確かに、入社したときよりかは、お客さんのために頑張るのって悪くないなと思ったりする。


ブーッとスマホが震え、ショートメールが届いた。雨村さんからだった。


『改札の前にいます』


え?! と慌ててあたりを見回した。改札前の顔ぶれはさっきと変わっていない。「僕も着いてます」と返しつつ首をひねる。おかしいな、もしかして反対側の出口にいるのか?


スマホを持ってキョロキョロしていると、数メートル向こうに立っているパンツスーツの女性と目が合った。次の瞬間、たたた、とヒールのないぺたんこのパンプスで小走りに駆け寄ってくる。



雨村
「すみませーん。もしかして笛木さん、ですか?」
笛木
「え、もしかして、雨村……さん?」
雨村
「よかったぁ。お会いできなかったらどうしようかと思いましたぁ」

雨村さんはそう言って、愛想良くニコリと笑った。


雨村
「さっそく行きましょう。出口はこっちですか?」
笛木
「あ、はい、そうですそうです」

連れ立って歩きながら心の中で叫ぶ。

谷江! 谷江ー! お前の同期だっていうから無意識に男だと思ってたよ!

いや、このジェンダーレスの時代にその思い込み自体失礼なんだけど!



雨村
「はじめまして、安心住宅の雨村理子(あめむらりこ)と申します。どうぞよろしくお願いします」
亮太
「どうも、島田です。よろしくお願いします」

いつも通り荒れ果てた部屋。

でも、雨村さんの反応は今まで一緒に内見に来たどの買主候補よりも冷静だった。すみません汚くて、と謝る夫婦にも笑顔で「いえいえ」と返す。


雨村
「小さなお子さまがいらっしゃるんだから当たり前ですよね。私もいろいろなご家族の物件をお預かりしてきましたので、よくわかります」

床で遊んでいる達輝くん、そして奥さんの腕の中で眠る美菜ちゃんに目をやって微笑む。そして、テキパキと内見を済ませ、食卓につくとテキパキと資料を確認し始めた。


雨村
「これですね、笛木さんが言っていたのは」
笛木
「あ、そうです、測量関係の資料がなく……」
雨村
「まぁ、これくらいの築年数のお家にはありますよね」
亮太
「あるんですか」
雨村
「たまーにですけどね」

まったく動じることなく平然と言うので、ものすごく頼もしく見える。島田夫婦も同様の感想を持ったらしい。おずおずと一枚の紙を取り出して、雨村さんと僕の間に置いた。


笛木
「これは……」
亮太
「スターホーム側の業者さんが出してきた買付証明です」


買付証明書。物件の購入希望者が売主に提出するもので、希望買取額などが書かれている大切な書類だ。


買付証明書

買付証明書とは、希望者が欲しい物件に対する「購入の意思」を示すために売主に提出する書類のことを指します。あくまで希望者が購入の意思を伝える書類であるため、法的な効力はなく、提出後に購入をキャンセルしても罰則などを課せられることはありません。


ゴクリと生唾を呑み込む。雨村さんが「拝見します」と書類を手にするのを覗き込み、思わず「安っ」という言葉が口からこぼれそうになった。最初に聞いていた希望額の7割ほどになっている。業者に頼むと、こんなに下がってしまうのか……。そして、この金額でもOKしようと思うくらい、島田さんは追い詰められていたということなのか。


亮太
「この買付よりもいい条件を出してもらえると、嬉しいのですが」
雨村
「もちろん、そうですよね」

雨村さんは眉尻を下げて、「うーん」と唸った。スターホームがひどく買い叩いているわけではなく、業者的には妥当な金額らしい。


と、そのとき。


笛木
「ひえっ」

ズボンを強い力で引っ張られ、思わず叫んでしまった。テーブルの下を覗き込むと、達輝くんが僕のスーツの裾を握りしめている。


達輝
「あそぼ」
久美
「こら達輝。邪魔しないの。お部屋に行ってなさい」
達輝
「やだ。あそぶ」
久美
「だめ。いま大事なお話をしてるのよ」
笛木
「いやいや、大丈夫ですよ。……あ、そうだ」

僕はふと思い出して、ポケットから小さなチョコレートと1羽の折り鶴を取り出した。


笛木
「この前は鶴くれてありがとう。これ、お礼というか、お返しというか……」

コンビニに寄ったときにふと思いついて買った、レジ横のちょっとしたお菓子。そして、僕も鶴を折ってオマケにつけた。鶴に鶴を返すのもどうかと思ったけど……。


達輝
「すごい!」

お菓子に喜ぶかと思いきや、達輝くんは鶴のほうに食いついた。


達輝
「ママみて! これはねがぱたぱたする!」
笛木
「あ、そうそう、かわいいでしょ」

普通の折り鶴ではなく、変わり種のパタパタ鶴。しっぽ部分を引っ張ると、鶴の羽が上下に動くやつだ。


雨村
「えーすごい。これ、笛木さんが?」
笛木
「この前達輝くんに折り鶴をもらったんですけど、それを見たら懐かしくなって……子どものころ、よく折ったなぁって」
久美
「よかったわねぇ達輝、こんなとき何て言うの?」
達輝
「あ・り・が・と!」


達輝くんは机の下から飛び出すと、鶴を大事そうに抱えてロフト階段を登っていった。「ぱたぱたぱた!」と折り鶴の羽を動かして遊んでいる声が聞こえる。


雨村
「器用なんですねぇ、笛木さん」
笛木
「いやいや、あんなのめちゃくちゃ簡単ですよ」
雨村
「最近のお子さんって小さいころからゲームや動画を見てるイメージですけど、達輝くんは違うんですね」
久美
「そう、手先が器用で、工作やお絵描きが大好きで」

すごいですね、と雨村さんはほのぼのと達輝くんの声がするほうへ目をやってから、「あぁ、すみません」とテーブルの上に置いた書類に意識を戻し、再び考え込む。雨村さんの反応から察するに、今の段階では金額で差別化するのは難しそうだ。


僕は買付証明を少しだけ自分のほうへ引き寄せて、もう一度上から下までじっくりと目を通す。なにか。なにかないだろうか。こちらに軍配が上がる糸口がなにか……。


笛木
「あ」
雨村
「どうしました?」
笛木
「雨村さん。金額はちょっと置いておいて、条件を工夫してもらうことはできないですか?」
亮太
「条件?」

僕は、「はい」とうなずいて買付証明の一部を指さした。


笛木
「この測量条件のところなんですが、『売主負担により実施』って書いてありますよね」
亮太
「あ……。確かに。これってつまり、僕ら自身がお金を出して実施するということですか?」
笛木
「不利なのは金額のことだけではないですよ。たとえば測量士が出した境界線に、お隣さんが納得してくれなかった場合、書類が作成できませんよね。そうすると、もし契約が成立していても、決済が下りないことになります」
亮太
「えぇっ」
笛木
「しかも、たとえ白紙解約になったとしても、それは買主ではなく、島田さまご自身の責任になってしまいます」
久美
「そんな……」
笛木
「つまり、ただ家が売れない。以上。というわけです」

青くなる島田夫婦を前に、雨村さんはなるほどね、と笑みを浮かべた。僕がどうですかね、と聞くと大きくうなずく。


雨村
「わかりました。『測量関係の売主負担』をなくした条件で買付証明を出せるかどうか、ちょっと社内で相談してみます」
笛木
「話が早くて助かります」
雨村
「すぐに戻って協議して、笛木さんを通じてご連絡しますね」
亮太
「ありがとうございます」
久美
「よろしくお願いします」

それぞれに頭を下げるふたり。「まだお礼を言うのは早いですよ」などと雨村さんは言っているが、その表情は明るい。


帰り際、達輝くんがロフトから駆け降りてきて、僕の背広のすそをギュッと握った。


達輝
「おにいちゃん、こんど、あのパタパタつるのおりかたおしえてね」
笛木
「もちろん」

このままいい方向に話が進めば、きっとまだまだ訪問の機会はある。

そんな僕の自信たっぷりの予想は。

しかしアッサリと裏切られることになるのだった。




田崎
「調子よさそうだね」

数日後、営業所を訪ねてきた田崎さんが、こちらの顔を見るなり言った。いつものように僕の隣の空き席を陣取る。相変わらずマスク姿で、今日はこの前より一段と青白いような気がする。大丈夫ですか、と聞こうとしたけど、先に笑顔で問いかけられた。


田崎
「例の案件、うまくいったの?」
笛木
「あ、はい、そうなんです。いい業者さんが見つかって。買付証明も出してもらって、いまお客さんの返事を待ってるとこです」

買付の写しを渡すと、田崎さんは感心した顔をした。


田崎
「なるほど、条件で勝負したのか」
笛木
「はい。この前はありがとうございました。本当はお客さんから正式に契約のお返事をいただいてから報告しようと思ってたんですけど」
田崎
「律儀だなぁ、笛木くんは」
笛木
「僕……間違ってました。金額のことばかり気にしちゃって、最初から個人の買主さんを探すことばかりに頭がいっぱいで。お客さんがどれくらい追い詰められてるか、ちゃんとわかってなかったです」

少しでも高く売りたい。それはもちろんだけど、大前提として売却がローンの期日に間に合わなければ、新居の融資が下りなくなってしまう。しかもその違約金として数千万円もの金額を請求される可能性だってある。島田さんがいくら貯蓄があるといっても、さすがにその額を払うことは難しいだろう。


と考えたときに、多少安くても買取業者に売っ払って少しの赤字で抑えるのとどっちがいいかは、火を見るより明らかで……。


田崎さんは、うんうんと大きくうなずいて、ポンと僕の肩を叩いた。


田崎
「頑張ったじゃないか」
笛木
「いやいや、業者さんのおかげ、ひいては業者を紹介してくれた同期のおかげで……」
田崎
「そういう人脈や運も実力のうちだよ」

そう言って、田崎さんは、ひと仕事終えたかのような満足げな顔をした。次の瞬間、激しく咳き込む。


笛木
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか?」
田崎
「ゲホっ……ごめんごめん、大丈夫」

ぜぇぜぇ、と荒い息を整えてから、思い出したように、


田崎
「そういえば、新しい勤怠管理はどう?」
笛木
「勤怠?」

急に話題が変わって、思わず目をパチパチさせてしまった。


笛木
「あ、はい、使いやすいです。この前同期と飲んだんですけど、みんな仕事がしやすくなったって喜んでました。それがどうかしました?」

「よかった」と、たちまち嬉しそうな表情を浮かべる田崎さん。


田崎
「今だから言うけど、あの新システム提案したの、僕なんだよね」
笛木
「えっ! そうだったんですか」
田崎
「ずっとやりたかったんだ。勤怠管理って一番大切なことなのに、これまではエクセルで管理してたから時間がかかって大変だったでしょ。だから、もっと安心して自分の本業……笛木くんの場合は営業だね、そういう、自分が本来やるべき仕事だけに集中できるようになったらいいなと」

一息に言って、ケホケホ、と軽く咳き込む。


業務だって大事な仕事のひとつなんだから、という田崎さんの言葉を思い出した。冗談かと思っていたけど、あれは本心から言っていたのか……。


田崎
「この会社、割と大きいほうなのに古い体質が抜けきらないんだよね。だからこれまでもいろいろと上に進言してきた。そうしたら、どうやら嫌われちゃったみたいで」
笛木
「上司に刃向かったっていう噂はホントだったんですか」
田崎
「ハハハ。あったなぁそんなこと。僕も若かったんだよ」

田崎さんは笑って「よいしょ」と掛け声を上げながら立ち上がった。腰を伸ばし、ふぅ、と息を整える。そして再び、僕の肩をポンと叩いた。


田崎
「笛木くんも頑張ってね。これからは不動産会社のファンを増やす側として」
笛木
「え? なんでそっち側なんですか」
田崎
「だってもうきみ、この仕事が好きだって顔してるからさ」
笛木
「は?」

去って行く田崎さんの背中をぽかんと見送る。思わずトイレへ行って、鏡で自分の顔をしげしげと眺めてしまった。


「仕事が好き」かぁ。実際どうかはわからないけれど、前よりは冷静にお客さんに向き合えるようになった気はする。


そんなことを考えながら、ついでに用を足して席へ戻った。椅子を引き出して座ろうとしたとき、机の下に書類が入った手提げの布カバンが置いてあることに気づく。


なんだこれ。



手に取って中身を探る。紙製のフラットファイルが数冊と、名刺入れ。中には、田崎さんの名刺……?!


田崎さんが忘れ物だなんて。慌ててスマホに連絡してみたけれど、応答はなかった。田崎さんの番号って、ホント肝心なときに繋がらないな。心の中で悪態をつきながら、続いて本社にかけてみた。


事務の女性
「はい、業務管理部です」
笛木
「第七営業所、笛木です。あの、田崎さんが戻られたら、忘れ物を預かってますってお伝えいただけますか?」

電話に出た人は、「忘れ物」と呟き、申し訳なさそうに続けた。


事務の女性
「重要そうなものでなければ、お手数なんですが明日の社内便でこちらに送ってもらえませんか?」
笛木
「あ、はい、大事な書類ではなさそうですけど。田崎さん、お忙しいんですか?」
事務の女性
「あ、はい、大事な書類ではなさそうですけど。田崎さん、お忙しいんですか?」
笛木
「体調不良?!」

確かに顔色は悪かったけど、そこまでだったとは。電話を切って、呆然としてしまった。呑気に喋って申し訳なかったな……。


と、そのとき。


所長
「おーい笛木、ちょっといいか」
笛木
「はい!」

急に所長に呼ばれ、急いで立ち上がる。事務所の一番奥のデスクまで小走りに近づくと、ニコリと笑いかけられた。


所長
「人事部から就活サイトに載せる社員インタビューの人選依頼があって、お前を推薦しておいた」
笛木
「え、僕を?!」

所長
「こういうのは大学生に近い立場の若手が担当することが多いし、なにより最近、笛木は頑張ってるからな!」
笛木
「でも僕、喋るのヘタクソで……」
先輩
「俺も昔載ったことあるから、聞かれそうなこととか教えてやろうか?」

突然、右後ろの席から声がかかった。振り返れば、配属後に僕のOJTを担当してくれた先輩がこっちを見ている。


所長
「そういえばそうだったな! ぜひ教えてやってくれ」
先輩
「了解です。笛木、ちょっとそこのパイプ椅子持ってきて横に座れよ」
笛木
「は、はい」


先輩とはいろいろあったけど、今では普通に話すようになったんだよな、などと思いつつ。


先輩
「まずはどんな感じのサイトか見た方が早いかな」

先輩は、パソコンのモニターを少しこちらに向けて、最新のリクルートサイトを表示させた。先輩社員3人分のメッセージが掲載されている。プライバシーに配慮してか、顔写真などはない。名前も本名ではなくイニシャルで、勤務する営業所名が添えられていた。


先輩
「基本的には、入社の理由とか仕事のやりがいとかを、根掘り葉掘り1時間くらい聞かれる感じ。インタビューといっても対話型の記事じゃなくて、個人がひとりで喋ってる感じの、700字くらいのメッセージに勝手に改変される。まぁ大丈夫、まずいこと口走っても、人事のほうで修正してくれるから」
笛木
「なるほど……」

僕は画面を眺める。全員別の営業所の人のようだ。


笛木
「先輩のメッセージが載ったのは、いつだったんですか?」
先輩
「見たい?」
笛木
「いや別に……。嘘です嘘です! 見たいです!」

先輩はフンと鼻を鳴らすと、ページ上部に表示されているURLバーをクリックした。


先輩
このアドレスの『http://〜/recruit/20xx』の最後の西暦部分を変えると……」

パッと画面が切り替わる。体裁はまったく同じなものの、違う3人のメッセージが現れた。


先輩
「最新のリクルートサイトには紐づいてないけど、ページ自体は生きてんだよな。だからこうやってURLを見たい年の西暦に変えると、古い記事が表示される」
笛木
「すごい。裏技ですね」
先輩
「過去5年分くらい読んどけば雰囲気掴めんじゃね? ちなみに俺のはコレね。熟読するように」

はーい、と生返事をする僕に、先輩はふと思いついたように手を打った。


先輩
「そういえば笛木、新しい案件で松井さんと戦ってんじゃなかったっけ?」

そう言ってURLの西暦を変える。新たに現れた3つの中、一番左端の「S.M.さん」の記事を指さした。


先輩
「これ、松井さんのメッセージ。もう会社にいない人のページまで残ってんのはどうかと思うけどな」

ほんとですね、と相槌を打ちながら、冒頭部分を読み進めてみて、ハッと息を呑んだ。

既視感があった。僕は、このページを見たことがある。


先輩
「どうかした?」
笛木
「いえ」

URLの西暦は、僕が就職活動をしていた年に合致する。そうだ、まだ学生だったころ、僕は確かにこのページを見た。そして、メッセージに感動して、この先輩みたいになりたいと思って、花枝不動産を選んだ。


「S.M.さん」が述べている仕事への向き合い方やこだわりは、確かにタクツウのインタビュー記事で松井さんが話していたこととほぼ同じだった。


この内容も、もちろん覚えているけれど。入社の決め手になったのは、真ん中に配置されている別の人のメッセージだ。


イニシャルは、K.T.。入社年は、松井さんと同じ。思い当たる人がひとりいる。

田崎幸治。

僕の入社のきっかけは、もしや。



2月末。

あれから田崎さんに何度も電話をかけてみたけれど、いつも留守電で一度も繋がらなかった。例の先輩社員のメッセージのこともあるし、なにより体調が心配なんだけど。


昼過ぎ、新たに担当することになった物件の資料整理を終え、もう一度電話しようかなとスマホを取り出してみた。


さすがにかけすぎかな。寝込んでいるのかもしれないし……。


と、悩みながら見つめていると、パッとスマホが明るくなった。ブルブルと震える画面に表示されたのは、「島田さま」。やっときたか、と気軽な気持ちで受話器マークをタップした。



笛木
「花枝不動産、笛木です」
亮太
『こんにちは、島田です。いまよろしいですか』
笛木
「もちろんです。お電話お待ちしておりました。契約の件でしょうか」
亮太
『そうです。そうなんです……』

島田さんはそこで黙り込んでしまった。なんだ。なんか雲行きが怪しいぞ。僕は、恐る恐る聞いた。


笛木
「あのぅ。どうか、されましたか?」
亮太
『それが……』
笛木
「はい?」
亮太
『スターホームさんにお断りの電話を入れたら……、笛木さんが出してくれた買付を見せてほしいと家に来られまして……』

嫌な予感。ゴクリと生唾を呑み込んだ。そんなことをしていたから、連絡が遅かったのか。


亮太
『そのとき、併せて新しい買付証明を持ってこられたんですが。その内容がかなり良くてですね』

『おにいちゃん? つるのおにいちゃん?』と後ろで達輝くんらしきかわいらしい声が聞こえる。


亮太
『かなり額も上がって、当初あった売主負担の測量条件も削除されていて』
笛木
「それってつまり、こちらが出した買付と同じ条件で、金額が断然良いと……?」
亮太
『そういうことに……なりますね』

やられた……!

僕は、スマホを握る手に思いっきり力を込めた。

買付証明を見せてくれと訪ねてきた場で、さらに良い条件を出してきたということは、こっちの手は完全に読まれていたということになる。


——きみは、田崎センパイの弟子ってことでいいのかな?


松井さんのセリフがよみがえる。感じる……「絶対に潰す」という強い意思を……!


亮太
『明日土曜日から来週前半にかけて、私が出張で家をあけるうえ、妻も多忙なので、来週後半の3月頭にスターホームさんで契約を進めようかと思っています』
達輝
『おにいちゃん? おにいちゃん? ねぇ、パパ。ねーぇ』
亮太
『達輝、ちょっと静かにしなさい。本当にすみません、笛木さん。そういうことなので……』

僕のほうこそすみません、とか、力不足で、とか、なにかをぼそぼそ答えた気はするけれど。


気づいたら電話は切れていた。耳にスマホを当てたまま、ひとしきりツー、ツー、という機械音を聞いたのち、さっきかけようとしてやめた番号をタップする。


わらにもすがる思いとはこのことだ。頼むから出てください、田崎さん。

プツッ、とコール音が途切れ、思わず息を吸い込む。つ、繋がった?!


笛木
「た、たさきさ……!」

『ただいま電話に出ることはできません——』


スマホを耳に押し当てて大声を出したけれど、返って来たのは無機質な自動音声だった。がっくりと肩を落として電話を切る。


社員A
「おつかれさんでーす」

と、突然、ダルそうなあいさつとともに、営業所内に見知らぬおじさんがズカズカと入ってきた。「えーっと」と呟きながら、紙袋から封筒の束を出してキョロキョロと周りを見渡す。


社員A
「今、きみ以外みんな接客中? 社内便ここにまとめて置いといたらいいかね。誰がどこの席か知らんし」
笛木
「社内便? ……もしかして、業務管理の方ですか?」
社員A
「そうだけど。はぁ〜、重い重い。来月はタクツウ配らないかんと思うと今から気が重いわー」
笛木
「あの! 田崎さんは……。田崎さんは、元気ですか……?」

恐る恐る聞くと、その人は心から迷惑そうな顔で言った。


社員A
「田崎が元気だったらボクが来るわけないでしょぉ」
笛木
「それって」
社員A
「ホント迷惑だわー、急に入院するなんて」
笛木
「にゅっ……入院?!」
社員A
「この寒空の下、なんでボクが郵便屋さんなんてしなきゃいけないのかなぁ。こんなの新人に任せれば」
笛木
「入院っていつから?! どこの病院?!」
社員A
「さぁ、数日休んでた気がするけどね」
笛木
「気がするって。同じ部署の人ですよね?」
社員A
「そんなこといちいち気にしてられんよ。こっちだってヒマじゃないんだからさぁ」

僕は、その人の手の中から勢いよく郵便物をもぎ取った。はずみで何通かが床に散らばる。指先でクシャッと封筒がよれるのも構わず、思いっきりにらみつけた。


笛木
「出てってください。配っときますから」

おじさんは、首をかしげつつブツブツ文句を言いながら出ていく。郵便の束を机に叩きつけて、さっそく業務管理部に電話し、病院に向かった。


電話口に出た業務管理の人は、丁寧に教えてくれた。


田崎さんは、体調不良で早退してから休んでいたこと。

入院は、昨日からだということ。

病名はまだ確定していないが、おそらく肺炎の類(たぐい)だろうということ。

年明けからずっと調子が悪そうだったので、退院までは時間がかかるのではないかということ……。


伝え聞いた病院名は、都内でも大きめの総合病院。1階の受付で面会を申し込むと、すみませんと謝られる。



受付
「インフルエンザが流行しているので、今、ご家族以外の面会が制限されているんですよ」
笛木
「そんな……」
受付
「ご不便をおかけします。なにかお預かりするものがあればお渡ししますが」
笛木
「あ……」

慌てすぎてお見舞いの品ひとつも持ってきていなかったことにようやく気づいた。自分の気の利かなさを呪いながら帰路につく。


もうなにもかもダメだ。

万事休す。いろいろな意味で。


とぼとぼ歩いていると、ふいに、いつかおた恵で松井さんに言われたセリフを思い出した。


——田崎の弟子の実力がどんなものか、お手並拝見といこうじゃないか。


思わず立ち止まる。


——まぁ、たいしたことないんだろうけどなぁ。いまや田崎センパイは業務部で腐ってんだから。


ふざけるな。


ぎゅっと両手の拳を握った。


腐ってなんかない。田崎さんは、いつだって本気だ。会社のため、みんなのために、影ならぬ努力をしている。悪い噂を立てられても、嫌われてしまっても、ずっとひとりで。


笛木
「くっそーーー!!!!!」

通行人にヘンな目で見られるのも構わず叫んだ。


負けるもんか。絶対に、負けるもんか。


僕は、田崎さんの意思を継ぐ「弟子」として、簡単に諦めるわけにはいかないんだ。



雨村
「そうですか、島田さんからお電話が……」

週末、雨村さんをおた恵に呼び出して一部始終を話した。残念そうな顔をされて、下を向く。


笛木
「すみません。休日にこんな話」

谷江
「俺、今モーレツにお前がかわいそうに思える」
笛木
「ありがとう谷江。なんでいるんだよ谷江」

谷江
「気にしてたんだよずっと。ふっきーが悩んでた案件どうなったかなぁって」
笛木
「それは……ごめん」

僕らは黙って、テーブルの真ん中で湯気を立てているおでんの盛り合わせを見つめた。



笛木
「雨村さんにはすごく助けてもらって……」
雨村
「そんなそんな、私はなにも」
笛木
「入社年数同じはずなのに知識も豊富そうですごいですよね。おかげで島田さんにも信頼してもらえたし」

すると、雨村さんはアハハと笑って、


雨村
「私、実家が不動産屋なんですよねぇ。だから人よりちょっとだけ詳しいってのはあるかもですね」

なるほど……。自分の勉強不足を感じていたけど、それだけじゃないのか。僕はちょっと安心して、手元のビールを一口飲んだ。

そこへ、僕らの会話を聞いていた谷江が「提案なんだけどさぁ」と口を挟んだ。


谷江
「ふっきーもアメちゃんも、プライベートのときくらいもうちょいラフに話したら? 他社の人間とはいえみんな同い年なんだし」
雨村
「まぁ、確かに……?」

僕の正面で、雨村さんがいたずらっぽく口角を上げる。


雨村
「じゃあ私は、ふっきーさんって呼んじゃお〜」
笛木
「あ、うん。いいですよ」
雨村
「私のことは、アメちゃんでもリコちゃんでもお好きにどうぞ〜」
笛木
「えぇ、えー……じゃあせっかくだから、リコさん?」

僕らのやりとりを、谷江がニヤニヤしながら「いいねぇ」と茶化す。むずがゆい気持ちを隠したくて、僕は、ヨシ、とメニュー表を取り上げた。


笛木
「谷江、リコさん、今日は僕のおごりだから。じゃんじゃん食べて」

雨村、もといリコさんは、やったと嬉しそうに声を上げ、さっそく店員を呼んだ。


雨村
「このメニューの上の段のおでん、右から左まで全部ください」
笛木
「えっ、20種類も?! まだ目の前に盛り合わせが……」
雨村
「あ、餅巾着は売り切れ? 残念。じゃあはんぺんにしてください」
谷江
「俺は、ビールとハイボール追加で」
雨村
「あっ、私もビールとハイボールと焼酎水割り」
谷江
「ふっきーは?」
笛木
「以上! 以上で!」

店員を追い返すと、リコさんが嬉しそうに箸を持ち、すでに来ていた卵とちくわ、こんにゃくなどをぽいぽいっと自分のお皿に取り分けた。


雨村
「今からアッツアツのが来るもんね。まずは冷めたやつからいただきまーす」
谷江
「アメちゃん学生のころからよく食うよねぇ」

本当に、その細身の体のどこへ入っていくんだろうという勢いで食べ始める。


雨村
「で、ふっきーさん」

やがてリコさんは、ちくわをもぐもぐしながら、どこか楽しそうに僕に目を向けた。


雨村
「話って、なんですか?」
谷江
「え、まだなんかあるの?」

谷江が不思議そうに僕とリコさんの顔を見比べる。
雨村
「だって、ふっきーさん、全然諦めてないって顔してるし」
谷江
「え?」

谷江は首をかしげているが、この人にはどうやらバレバレみたいだ。

僕は、握った両手の拳をひざの上に置いて、「お察しの通りです」と言うと、テーブルに額をこすりつけんばかりに頭を下げた。


笛木
「リコさん。もう一度、島田家のお取引に手を貸してもらえないでしょうか」

「えぇっ」と谷江が隣で声を上げる。


谷江
「なに言ってんだよ、断られたんだろ?」
笛木
「あちらの仕事の都合で、契約予定日は来週後半。あと数日ある。それまでになんとか、新しい売買条件を提示したいんです」

なんとかお願いします、とさらに頭を下げると、リコさんがクスリと笑う声が聞こえた。


雨村
「ふっきーさんがお客さんに好かれる理由、なんとなくわかります」
笛木
「へ、好かれる?」

ぽかんとして顔を上げた視線の先で微笑む。


雨村
「さっき、私のおかげで島田さんに信頼してもらえて助かったって言いましたよね。でも、そもそも買付の状況をそこまで教えてくれたってことは、ふっきーさんも相当信頼されてるってことですよ」
谷江
「まぁ、確かにそうだよな、普通そんなことまで懇切丁寧に教えてくれないと思う」
雨村
「たぶん、一生懸命頑張ってくれてるっていうのが伝わってるんですね」

なにを言われているのかよくわからず、黙って瞬きをすると、リコさんは大きくうなずいた。


雨村
「やりましょう。ふっきーさん、お子さんにも好かれてたみたいですしね。お客さまとの関係が良好なうちは、まだ手の打ちようがあるはずです」
笛木
「た、助かる……! リコさん、ありがとうございます!」
雨村
「あっ、ホラ追加のおでんが来た。いっぱい食べて、一緒に対策を練りましょ」

湯気の向こうでカラッとした声色で言われて、胸の奥がじんわりと温かくなった。そばを通った店員を呼び止め、追加のビールを注文し、リコさんに向き直る。



笛木
「じゃあ、……、引き続き、お願いします」
雨村
「もちろん」
谷江
「よっしゃもう一回乾杯しようぜ」

3人分の飲み物が揃ったところで、僕らはカチンとグラスを合わせる。しゅわっと弾けるビールの炭酸が、澱んだ心の中のモヤモヤをゆっくりと押し流していくようだった。



スターホームに会う前に、なんとか時間を作ってほしい。

そう頼み込むと、島田夫婦はなにかを察したようだった。


「子ども達が夕飯を食べていてもよければ」という条件つきで、旦那さんが出張から帰る水曜日の夜に約束を取り付けた。


当日、時間通りに訪ねていくと、聞いていた通り、達輝くんと美菜ちゃんは晩ごはんの真っ最中だった。いつもの席に座るように促され、雨村さんが心配そうに聞いた。


雨村
「知らない人が近くにいると、恥ずかしがって食事できない子もいると聞きますけど、いいですか?」
久美
「えぇ、今日は大丈夫そうなので」
笛木
「今日は……?」
久美
「実は、前、同じ時間帯にスターホームの松井さんたちがいらしたんですけど。ふたりとも机の下に隠れちゃって大変だったんです」
笛木
「そ、そんなことが……?」

そんな騒動などみじんも感じさせず、すました顔で食べ進める達輝くん。一方の美菜ちゃんは、手づかみでプレートの上に並んだおかずを一生懸命口に運んでいる。


美菜
「どじょ!」
久美
「美菜、ミートボールはどうぞしなくていいのよ。自分でもぐもぐして」
美菜
「あい!」

美菜ちゃんの前には、食べこぼしやら、いろいろなところを拭いたらしいウェットティッシュが山と積み重なっている。子育てって、食事ひとつとっても大変そうだなぁ。


と、そこへ、スーツ姿の旦那さんがネクタイをゆるめながらダイニングに入ってきた。


亮太
「すみません、お待たせして」
笛木
「こちらこそ、お疲れのところ申し訳ありません」

長方形のダイニングテーブルの長辺に島田夫婦、旦那さんの正面に僕、奥さんの向かい側にリコさんが座り、奥さんに近いほうの短辺に美菜ちゃん、反対側に達輝くんがそれぞれ座るかっこうとなった。



よし、と意を決してカバンからファイルを取り出す。印刷したての買付証明を、島田夫婦の間にそっと置いた。


笛木
「今日、突然お伺いしたのは、明日のスターホームさんとのご契約の前にぜひもう一度チャンスをいただきたいと思ったしだいで」

ふたりともやはりそれは察していたようで、特に反応はなかった。買付を黙って覗き込み、「売買条件」の一番上の項目に書かれた「売買金額」に目を走らせた、と同時に揃って表情を曇らせる。


亮太
「なんだ、こんな金額か」
雨村
「すみません、私も努力したのですが、当社にはこれが限界でした」
亮太
「急にお時間くださいって言うから、頑張ってくださったのかと期待してしまいましたよ」
久美
「私も。なんだか残念です」
笛木
「島田さま」

僕は、内心冷や汗をかきつつ、おだやかな表情を作るように努めながら、島田夫婦の顔を順番に見た。


笛木
「ちょっと、スターホームさんの買付を見せていただけませんか」
亮太
「いいですけど……」

旦那さんは、けげんな顔でテーブルのすぐ脇のキャビネットに手を伸ばし、引き出しから書類の束を取り出した。えーっと、とペラペラめくり、中から一枚を抜き出す。


僕は、手渡されたその買付証明にサッと目を通した。

よかった、リコさんに出してもらった金額よりも若干高いものの、予想を大きく上回る額じゃない。まだ、訴える余地はある。僕は、軽く息を吸い込んで、それを、持って来た買付の隣に並べて置いた。


笛木
「現状、スターホームさん側の買付以上の金額のご提示は難しい状況です。少しでも高くとのお考えの中、大変心苦しく思います」
亮太
「それならなぜ今日、わざわざ?」
笛木
「見ていただきたいのは、条件です」
亮太
「条件?」

はい、と答えながらここぞとばかりにゆっくりと立ち上がって腕を伸ばす。買付証明の下の方に羅列した「その他条件」を指さした。


笛木
「この、引き渡し猶予期間のところなのですが。スターホームさんの条件では、1週間となっていますよね。一方、私どものほうは、14日間としています」
雨村
「島田さまは共働きでいらっしゃいますし、お子さんも小さいですよね。通常より長い猶予期間があったほうが、無理せずお引っ越しできるのでは、と考えました」

奥さんが書類の文言を食い入るように見つめる。旦那さんも、思案するように腕を組んだ。


笛木
「さらにもうひとつ。家具や家財の撤去についてなのですが、ご不要なものは全部そのままでも大丈夫、という条件を付けました」
雨村
「ご存知の通り、業者に処分を頼むと数十万単位でお金がかかりますよね。なので、先ほど笛木さんが言った通り、不要なものは残してもらって構いません。お引っ越しを機に、スッキリされるのもいいかと思います」

ゆっくりと席に座り直して、2枚の買付証明を前に考え込んでいるふたりの顔をじっと見つめた。


笛木
「いかがで、しょうか」

隣の席の雨村さんが、ごくりと息を呑み身じろぐ気配がした。


旦那さんは、「うーん」と唸ったきり腕組みして天井を見つめている。奥さんは、美菜ちゃんの口元を拭いてあげつつ、首を伸ばしてもう一度書類を上から見直しているようだ。


1円でもいいから高く、というのはわかる。リコさんにも精一杯努力してもらった。なんとか、なんとかお願いします……!

達輝くんが立てる食器の音だけが部屋に響く居心地の悪い時間。緊張で浮かんだ汗が、こめかみを伝って首筋へ流れるのを感じた。


島田夫婦はなにも言わない。少しとはいえ、スターホームのほうが高値なことは明らかだ。条件で頑張ってみたものの、1円でも高く、という希望には添えていない。


ダメか。唇を噛み締めた、ちょうどそのとき。


達輝
「ぼく、おにいちゃん、すき!」
笛木
「た、達輝くん……」
達輝
「このまえのおほしさまのひとは、こわかったけど!」
笛木
「おほしさま……? あぁ、スターホームのバッジをつけてたお兄さんのことね」
達輝
「うん。でも、おにいちゃんは、やさしいからすき!」
美菜
「まんま!」

美菜ちゃんがハンバーグを握りしめた右手を挙げ、合いの手を入れる。


久美
「あら、美菜もお兄さんが好きなの?」
美菜
「あい!」
達輝
「みなも、おにいちゃんにあそんでもらった! ぬいぐるみで!」
亮太
「そんなことが?」

ぷ、と吹き出した旦那さんが、困ったような笑顔で達輝くんの頭に手を置きため息をついた。続いて奥さんのほうを見る。


亮太
「うーん。いいかな、久美」
久美
「そうねぇ。元はと言えば、子どもたちのために家を建てたんだものね」

顔を見合わせ、微笑みあってから、僕らのほうへ向き直るふたり。


亮太
「笛木さん」
笛木
「は、はい」
亮太
「この内容で、進めていただけますか」
笛木
「!」
久美
「笛木さん、雨村さん、どうぞよろしく、お願いします」
美菜
「どぞ!」
達輝
「ねがいます!」

家族全員に笑顔で言われ、ふたりして弾かれたように立ち上がる。


笛木雨村
「あ、ありがとうございます!」


——今回の案件は、きっとお子さんがカギになるだろうね。


前に、田崎さんに言われた言葉が、耳の奥でよみがえった。

<ワンポイント解説>

スターホームに勝てた1つの要因として、残地物の撤去が不要というポイントがあります。

残していく家具や家財が非常に多いと撤去に50~60万かかってしまうケースがあります。さらには多くの手間や時間がかかるため、こうした要因を加味すると単純な金額面で劣っていても条件がいいことがあります。




所長
「笛木ィ! よくやった!」

3月も終わりに近づいたころ。僕は、朝礼で所長に褒めちぎられていた。


所長
「今日は、めでたい報告がふたつある。まずひとつ! 笛木が新人賞を受賞することが決まった!」

僕が会釈をすると、営業所内がわき、祝福ムードに包まれる。

所長
「そしてもうひとつ! 笛木の頑張りもあって、この第七営業所の成績がトップになり……、なんと営業所も全国表彰されることになった!」

「えー!」「マジで?」という一瞬のどよめきが、徐々に拍手に変わる。僕もぱちぱちと手を叩いた。特別に前もって聞いていたとはいえ、やっぱり嬉しい。


所長
「表彰式は来週だ。俺と笛木が代表で参加するが、みんなもリモートで見るように」

おめでとう、と口々に声をかけられながら席に戻る。なんだか誇らしい。スマホのグループメッセージには、谷江と、話を伝え聞いたらしいリコさんからもお祝いが届いていた。


雨村
『おめでとうございまーす!』
谷江
『賞金で今度なにかおごって!』

なにもなければ「やだよ」と返すところだけれど、今回ばかりはふたりのおかげだ。素直に『ありがとう、また飲みに行こう』と返し、ペコリとお辞儀しているクマのスタンプを送った。


とそこへ、プルルルル、と電話が鳴った。

先輩が取り、「笛木」と呼ばれる。


先輩
「3番に、スターホームの松井さんから電話」

一瞬、シンと静まる事務所内。「あの松井さん?」とひそひそ話す声が聞こえる。みんなの視線を浴びながら、僕は「はい」と返事して目の前の受話器を取り上げ「3」のボタンを押した。


笛木
「もしもし、お電話代わりました」
松井
『笛木サン。その節はどうも』
笛木
「こちらこそ……」
松井
『いや〜、おみごとだったわ、そちらの手腕』
笛木
「いえ、松井さんもさすがです。何度もひっくり返されてドキドキしました」

ハハハ、と笑って、松井さんは『念のため聞くんだけど』と続けた。


松井
『最後、笛木サンが出した買付の内容って、田崎の指示?』

断られたときに、島田夫婦から聞いたのだろう。僕はゆっくりと首を振った。


笛木
「いえ。僕と、業者さんの判断です」
松井
『なるほどね、やるじゃないか』
笛木
「い、いやいや」
松井
『まあ、あいつの弟子なら当然なのかもしれないけど』
笛木
「はぁ」

自分が褒められているのかはナゾだけど、意味もなく照れてしまう。


松井
『田崎のやつ、前はもっと尖ってたんだぜ。あいつのOJTを担当した先輩が会社を辞めてからは特に』

先輩。第一不動産販売に転職したという、例の先輩だろうか。


松井
『その態度のせいで上司に嫌われて、さらに仕事ができすぎて恨みを買ったというのもあって飛ばされたんだろうな。転職先でその噂を聞いたときも腹が立ったけど、実力あるのにおとなしく会社の言うことを聞いてるあいつの態度にも心底ムカついた』

『でも』と松井さんは晴れやかな口調になる。


松井
『なんかスッキリしたわ。あいつ、業務で柄にもなくボンヤリしてんのかと思いきや、ちゃんと後輩を育ててたんだな』
笛木
「はぁ」
松井
『アドバイスも控えて見守ってるとか言ってたしな』
笛木
「え……」
松井
『しかも、ちゃんと次のことも考えてるっぽいし』
笛木
「次?」
松井
『うん。だから、早く退院しろよって伝えて』
笛木
「あ……。ご存知だったんですか」
松井
『店で会ったときも調子悪そうだなって思ってたけど。2日前に見舞いに行ったらずいぶん元気になったみたいで』
笛木
「え?! お見舞い?!」
松井
『次は勝つぞ。田崎にも、きみにも』

松井さんはどこか楽しそうにそう言って、『では失礼します』と業務的な口調に戻ると、電話を切ってしまった。


一方僕は、受話器を投げ出し、例の病院のホームページを調べた。トップページにおしらせが出ている。



『インフルエンザ流行による面会制限を、解除いたします——』


い、いつのまに……!

田崎さんのことは毎日心配してはいたけれど、完全に見逃していた……!


急いで事務所を飛び出す。

ひとりで仕事をこなせたこと。表彰を受けることになったこと。

そして、花枝不動産に入社するきっかけをくれたことへの謝意を。

早く、本人に伝えたかった。


総合受付に駆け込み、面会を申し込む。お調べしますね、とパソコンを操作した受付の人は、ほどなくして困惑の表情を浮かべた。


受付
「田崎幸治さん、と仰いましたか」
笛木
「はい」
受付
「たしかに3月から数週間入院されていた記録は残っていますが……、昨日退院されていますね」
笛木
「えぇっ」


田崎さん、いつのまに。というか、それなら教えてくれたっていいじゃないか。

お礼もそこそこにエントランスを出て、スマホを取り出す。履歴をたどって田崎さんの番号にかけた。


が。


『おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか、現在使われておりません』

笛木
「?!」

『番号をお確かめになって、もう一度……』


なんで?! 電源が切れてるのか……?


なんだか嫌な胸騒ぎがする。震える指で、今度は本社の番号をタップした。


事務の女性
「はい、業務管理部です」
笛木
「第七営業所、笛木ですが」
事務の女性
「あ、お疲れ様です。笛木さん、また表彰だそうじゃないですか。みんなすごいねって……」
笛木
「あのすみません! 田崎さん、田崎さんは……!」

相手の言葉に重ねる勢いで、ほとんど叫ぶようにまくしたてると、「え?」と驚いたような声が聞こえた。


事務の女性
「笛木さん確か、最近田崎さんと仲良くしてましたよね? なにも、聞いてないですか?」
笛木
「な、なにを……?」

私から伝えていいのかしら、などというつぶやきの後、彼女は意を決したように言った。


事務の女性
「昨日づけでね、退職されたんですよ、田崎さん——」

(第3話につづく)

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