初夏の日差しが差し込む営業所。テーブル越しに並ぶカップルと対峙する先輩の横で、僕はひたすら小さくなっていた。
かれこれ半時間ほど、この2人はものすごい剣幕でケンカをしている。
もうホント無理、こういう客が来たときは心底この仕事が嫌になる。今は研修中だし、先輩についているからまだいいけど、独り立ちした後のことを考えたら寒気がする……。
ウンザリと手元の書類を意味もなくペラペラめくっていると、営業所内に別のお客さんが入ってきた。先輩がわざとらしく時計を見て、助かったとばかりに、いらっしゃいませぇー! と声を上げる。
深々と頭を下げ、それまで一歩離れて後ろに座っていた僕の椅子を全面に押し出すと、先輩はスタコラと隣のブースに行ってしまった……!
そ、そんな!!
僕は大いに困惑したが、カップルのほうは担当が変わったことなど全く気にしていない様子だ。
他のお客さんの視線が痛い。すみません、うるさいですよね。
ものすごい形相で尋ねられ、思わずヒィッと声を上げてしまった。
知らないよ! っていうか、それくらい決めてこいっての!
心の中で盛大に突っ込みつつ、たまらずそーっと席を立つ。
後ずさりで事務所に引っ込むと、2人は再び睨み合いを始めた……。
僕、笛木友也(ふえきともや)は、花枝不動産に入社してまだ3カ月の新人営業マンだ。
就職活動中にこの会社の採用ページに載っていた先輩社員の接客エピソードに感動し、入社を決めた。でも、「あんなふうになりたい!」と夢と希望に胸膨らませていたのは、正直、新入社員研修期間までだった。実際に営業所へ配属され、接客業務を始めてみると、書類の山や膨大な手続きに悩まされるなんて日常茶飯事だし、面倒な客に捕まった日にはこの世のすべてを呪いたくなるし……。
なんか思ってたのと違うというのが正直な所感。根性なしと言われればそれまでだけど、入社前の会社への期待がものすごく大きかっただけに、僕はこの営業所に配属されて数週間にして、すでに仕事を辞めたくなっていた。
事務所内のコピー機の前でぼんやりしていると、突然背後から話しかけられた。
慌てて振り返ると、人の良さそうな男の人が、興味津々な様子で立っている。スーツこそピシッと着ているものの、少しぼんやりした感じで、営業マンではなさそうだ。本社の事務職の人だろうか。でもなんで、こんなところに……?
僕の困惑を察してか、その人は、ごめんごめん、と内ポケットに手をやる。
渡された名刺には、『業務管理部 田崎幸治(たさきこうじ)』とあった。
入社したときにもらった会社の組織図を頭に浮かべる。業務管理部といえば、確か社内の雑用係。定年後の窓際族のための部署だったはず……。でも、田崎さんはどう見ても30代後半くらいだ。そこに配属されるにしては若すぎる。ということはつまり、よっぽど仕事ができないってことか……。
いろいろと察した僕の様子に構わず、田崎さんは本社から届けにきたらしい郵便物の束を小脇に抱え直し、ガラス張りのパーテーション越しに、再びあのカップルへ視線をやった。
自分の客のことを教える義理はなかったけれど、いちおう先輩だしな……。
僕はしぶしぶ答えた。
田崎さんはカップルを見やったまま、興味深げに自分の顎に手をやった。
なにが「なるほど」なのか全然わからない。困惑する僕に田崎さんは視線を戻す。
観察? なにを?
思わず眉間にシワを寄せるが、田崎さんはそれ以上なにも言わず、「じゃ」と手を挙げて事務所から出て行ってしまった……。
しばらくしてカップルのところへ戻ると、彼氏さんはトイレに立っていた。ひとり残された彼女さんは、さっき僕がプリントした2LDKの部屋の間取り図に視線を落としている。
なんだかぽつんと座っている姿が寂しそうで忍びなくて、新しいコーヒーをプラスチックのお盆に乗せて背後から近づいた。ふと、さっき田崎さんに言われたことを思い出す。
観察。名探偵じゃあるまいし、限界がある。サラッと適当なことを言うんだから。
心の中で悪態をつきつつ、いちおう、彼女さんの頭のてっぺんからつま先までサッと視線を送ってみた。紙コップホルダーのコップを、新しいものと交換していると、カバンが目に入る。彼女さんの背中と背もたれの間に置かれた小さな手提げカバン。
次の瞬間、
思わず声を上げてしまった。彼女さんが、不機嫌に僕を見上げる。
一礼してカウンターの中へ戻り、田崎さんの言葉を反芻した。
——彼女さんには絶対なにか理由があるはずだ。
もしかして、この人が広い家を希望している理由って……?
*
なおもケンカを続ける2人を車に乗せて、僕は外へ出た。彼氏さんが希望した、1LDKの部屋の内見だ。本当なら営業所の先輩とふたりで対応すべきところだけど、仕方がない。
3人で部屋に入ると、彼氏さんがダイニングの中央で手を広げた。
しかし、少し離れたところに立ち、両手の拳を握りしめた彼女さんは、絞り出すように言った。
バンッ!
鈍い音が室内に響く。彼氏さんが、ペットボトルのお茶を勢いよくキッチンのカウンターに叩きつけた音だった。
彼女さんは、唇を噛み締めて黙り込んだ。空っぽの部屋の中に、イヤな空気が流れる——。
普段だったら、ひたすら息を殺してほとぼりが冷めるのを待つばかりだったかもしれない。でも、今日の僕は違った。
そーっと、ふたりの間に割って入る。
彼女さんに顔を向けると、「なに?」と首をかしげる。その目をまっすぐ見つめ返したものの、やっぱり迷った。僕なんかが言ってもいいのだろうか……。
苛立つ彼氏さんの横で、彼女さんがなにかを察したように身じろぎした。続いて、おへそあたりに手を当てる。その表情に後押しされて、僕はついに言った。
一瞬、部屋の中にさっきとは別の種類の沈黙が漂う。一拍置いて、
彼氏さんが素っ頓狂な声を上げた。
ガシッ!! と両肩を掴まれた彼女さんの両目が潤む。俯いて視線を右へ左へと泳がせると、唇を引き結んだまま、こくんと頷いた。
部屋に彼氏さんの雄叫びが響く。
彼女さんは目尻を拭い、僕に視線を向けて小さく笑った。
僕は人差し指で頬をかきながら、
手元のバインダーに挟んだ資料に視線を落とす。
彼氏さんが、真面目な顔で僕のほうへ向き直る。
彼氏さんの申し出に、僕は笑顔で頷いたのだった。
◆
翌朝。朝礼で所長に思いっきり肩を叩かれ、思わず変な声を出してしまった。
この人に褒められたのなんか、いつぶりだろう。配属されたばかりのころ、所長が床に落としたペンを拾ったときくらいじゃないか……?
褒められたのが久しぶりすぎて、ふわふわした気持ちでデスクに戻る。と、社用のスマホが鳴った。ポケットから取り出すと、画面に【本社 人事部】と表示されている。えっ、なんだろう、なにか悪いことでもしただろうか?!
恐る恐る電話に出ると……。
他部署の電話を借りるとか、それどういう状況ですか……! いや、この人ならありえる、なにしろ日々社内をウロついているんだろうから……!
僕は、この営業所に来たときに郵便物の束を抱えていた田崎さんの姿を思い出してため息をついた。
田崎さんが、電話の向こうでクスリと笑う。
今の今まで忘れていたけど、契約が取れたのは田崎さんの助言があったからでもあるんだ。僕は電話越しに頭を下げた。
思わず声が震える。そんなことを言われたのは初めてだった。所長に褒められた件といい、明日は槍でも降るんだろうか。
一瞬舞い上がりそうになるが、いやいや待てと気持ちを沈める。
そもそも、田崎さんは僕の成績なんか全然知らないだろうからそんなことを軽く言うんだ。それに、正直なところ、業務管理部の得体の知れない人に言われたって、僕としては困惑するばかりだ。
いろいろ考えた上で、とりあえず軽くお礼を言うと、田崎さんは嬉しそうに続けた。
今夜の予定はついさっき決まったばかりだった。初契約祝いだと先輩に飲みに誘われたのだ。
2日連続飲み会なんて、正直ちょっと気が進まなかった。
でも、このタイミングで田崎さんとお酒の席を共にしたことが、のちの運命を大きく変えることになるなんて……、このときの僕は、夢にも思っていなかった。
◆
指定された店『割烹 おた恵』は、会社から歩いて5分ほどの、ビジネス街を抜けた路地裏にあった。
15分前行動を心がけたはずなのに、田崎さんはすでに一番端のカウンター席を陣取っていた。
その言葉通り、カウンターには小鉢に入った食べさしの料理がいくつか並んでいる。いったいいつからいるんだこの人。
隣に座ると、田崎さんは、うきうきと2人分のビールを注文して、あとは好きなもの頼みなよ、とメニューを渡してくれた。
どういうことだろう。首をかしげたところに注文したビールと追加の料理がやってきた。乾杯、と合わせたジョッキを、田崎さんは上機嫌で飲み干す。強そうで羨ましい。僕はちびちびとなめるように、白い泡に口をつけた。
田崎さんは、自分で追加のビールを注文してから、僕に向き直った。
突然の確信をついた質問に、ビールを喉に詰まらせる。
僕は、普段の業務内容に頭を巡らせた。カップルの件といい、なんといい……。
田崎さんは、ハハハと笑って、この店の名物だというおでんの盛り合わせの皿から、こんにゃくをヒョイと取り上げた。
うん、とうなずく田崎さんがおでんの皿を僕のほうへ押しやるので、大根を取った。取り皿の上で、ふわっと上がった湯気が、いいにおいをまとって鼻腔をくすぐる。口に運ぶと、じゅわっとダシが広がった。美味い。昨日の飲み会で荒れた胃にしみわたる。
しばらく黙々とおでんに舌鼓を打っていると、田崎さんが聞いた。
なんでそうなるんだ。僕は愛想笑いを浮かべつつ、あのときの感動に思いを馳せる。
そっかぁ、と田崎さんは言いながら、次は餅巾着に箸を伸ばした。かぶりついて、アチッ! などと呟いている。
あの飲み会に比べれば、今日は天国に思えるし……。
僕は、フーフーとにんじんを冷ましながら、昨日のどんちゃん騒ぎを思い出した。
田崎さんは、餅巾着をゴックンと飲み込んで、信じられないという顔をした。
田崎さんは、ぱしっと箸を皿の上に揃えると、勢いよく僕の顔を覗き込んだ。
冗談だろ、と思ったが、田崎さんは今まで見た中で一番真剣な顔をしていた。
おでんを食べ終わって、店を出ても、「いい? 絶対手伝いに行くんだよ!」と念を押される。行かなかったら、末代まで呪われそうだ。なんかめんどくさいことになったぞ。こんな話、しなけりゃよかった……。
◆
次の週末。
雨が降ることを心から祈ったものの、その日は梅雨明け一番の夏日で、皮肉にも絶好の草刈り日和だった。作業しやすい軽装で、高水ハウスの住宅展示場へ重い足取りでたどりつく。当たり前だが、あの日飲み会に誘ってくれた僕の先輩は来ていない。そりゃそうさ、お酒の席で聞いた他社の話を真に受けて手伝いに来るなんて、いないよそんな奴……。
振り返ると、飲み会で会った高水ハウスの人が、目をまんまるにして立っている。あの日はビシッとスーツを着ていたが、今日はTシャツ長ズボンだ。
えっ、そんなに喜ぶ?
今度はこっちが目を丸くする番だ。
大声を出すもんだから、展示場の窓から他の社員さんが数人、顔を出した。
揃いも揃って笑顔になる高水ハウスの人たちに取り囲まれ、かわるがわる握手まで求められてしまう。あまりにも歓迎されるから、めんどくさいという気持ちは自然と消えてしまった。
指定された場所へ行くと、梅雨の時期にたっぷり水分を吸った草が勢いよく伸びていた。お客さんの目の届くところは割と整備されているようだったが、目立たないところの手入れにはなかなか手が回らないのだろう。
借りた草刈り鎌で、さくさくと雑草を刈り取っていく。小一時間で、僕の周りには草の山が出来上がった。
高水ハウスの人は汗を拭き拭き、スポーツドリンクの蓋をカチリと開けながらニコッと笑った。
同じだろうか。
あははと口先だけで笑いながら、心臓がきゅっと痛くなる。正直言って、そんなこと考えたこともなかったからだ。
俯く僕に、高水ハウスの人はペットボトルを手渡しながら言った。
スポーツドリンクを軽く持ち上げてみせるが、彼はそのまま、うーんと首をひねっている。すると、側で話を聞いていた別の社員さんが口を挟んできた。
嬉しそうにポンと手を打ち、首をかしげている僕に向き直る。
思いも寄らない展開だった。
脳裏に、あの日のおでんの香りと、「なにが役に立つかなんてわかんないものだよ」という田崎さんの真剣な表情がふわりと浮かんだ。
◆
それから約1カ月後。僕は再び所長に褒めちぎられていた。
そう、あれから僕は高水ハウスの人から紹介してもらったお客さんと、無事契約を交わすことができたのだった。と言っても、完全に高水ハウスの人たちのおかげなんだけど。……それに、田崎さんのアドバイスも……。
営業所内から、ぱらぱら、と気の無い拍手が起こる。
マジで?! いきなり独り立ち?! どう考えても無理だって……!
朝礼が終わり、青ざめながら席に戻った僕は、自分のデスクを二度見した。パソコンのモニター前のスペースが、極厚のバインダーで埋め尽くされていたのだ。
なんだこれ。
困惑し、そーっとバインダーをめくってみる。
弁護士? 競売? 任意売却……?
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なんだか不穏な単語が並んでおり、そーっと閉じたところで、ぽん、と肩を叩かれる。いつもめんどうを見てくれていた先輩だった。
言いかけて、息が詰まる。先輩の目が、全然笑っていなかったのだ。
慌てる僕をよそに、先輩は「ポスティングいってきまーす」と高らかに宣言して、さっさと外へ出て行ってしまう。
呆然と立ち尽くし、資料の山の一番上を改めて手に取った。
物件名は、「セントラルハイツ川久保」。築30年、8階の角部屋、2LDK。さっそくネットで場所を検索してみたが、駅から少し離れてはいるものの、窓が大きく南向きで、築年数にしては割といい感じのマンションだった。
なんだ、どんな事故物件かと思えば……と、一度は拍子抜けしたが、資料を読み進めれば読み進めるほど、イヤな汗が出た。
どうやらこの案件の問題は部屋ではなく、売主のようだった。この部屋は、住宅ローンの滞納で、競売寸前の状態になっているようなのだ。僕は、頭の中で入社時に渡された研修資料をペラペラとめくる。
確か「競売」になった物件は、遅延損害金なんかが上乗せされて借入金がかさみ、安く買い叩かれることもある。それで、売主から相談を受けた弁護士がこの話を花枝不動産に回してきた、ということらしい。
事故物件ではないが、事故寸前案件だ。
顔を上げるが、他の先輩も所長もみんな忙しそうで、とてもじゃないけど相談できそうな雰囲気ではない。
ひとりで、なんとかするしかないのか。
僕は、絶望的な気持ちで、ゆっくりと席を立った。
◆
セントラルハイツ川久保、801号室。
出迎えてくれたのは、老夫婦だった。旦那さんは70歳前後くらい。一方、奥さんのほうはもう少しだけ若く見える。
通されたリビングで、テーブル越しに僕らは向かい合って座った。
すっ……と目の前に出された名刺には、『丸川工業 代表 丸川秀雄(まるかわひでお)』とある。
ややこしい!!
細くて白髪の旦那さん。分厚い黒縁メガネの奥で、ぎょろっとした目玉が存在感を放っている。愛嬌のある顔立ちなのに、口調はかなりそっけない。
バッチリメイクの奥さんのほうは、グレーの髪に細かいパーマをかけ、小ぎれいな服を着ている。若いころは、相当な美人だったんじゃないだろうか。でも、あれ……? けっこう派手な感じだけど、お金がないんじゃなかったっけ……。
僕は、どう話を切り出したらいいものかと考えあぐねながら、出された湯呑みに口をつけた。
テーブルに次々とお菓子を並べて、僕の顔を覗き込む幸子さん。もっふもふのパーマが目の前で揺れる。
うまやって、あの高級和菓子店の?!
お金に困っているとはとても思えないけど、いったいこれはどういうことだろうか。
幸子さんはまったく気にするそぶりもなく、薄皮饅頭を小皿に乗せて僕に差し出すと、お茶を淹れ直し始めた。
それまで無表情で黙っていた丸川さんが、ピクリと片眉を震わせ、険しい表情になる。……とても怖い。
幸子さんは、昨日の天気の話でもするかのように軽い口調で丸川さんを見やった。
競売とは、債権者が裁判所を通じて不動産を競りにかけて、最高価格を申し出た人に対して売却し、その売却代金によって債務の弁済を受けるという制度のことを指します。日本では一般的に地方裁判所が競売を行います。
丸川さんが突然、今日イチ大きな声を出した。何度も言うけど、とても怖い。
丸川さんは幸子さんに全ての愛想を吸い取られたかのようにニコリともしない。そればかりか、顔に『なぜこんな若造が』と書いてある気がする……。
僕は、丸川さんの冷たい視線から必死に目をそらして言った。幸子さんが、案の定首をかしげる。僕は、ここに来る前に読みこんだ資料で得た知識を披露した。
任意売却とは、住宅ローンが返済不能となり、抵当権のある住宅を売却しても残債ができてしまう場合に、金融機関などの債務者の協力を得て売却する方法のことを指します。任意売却は競売を回避できることに加え、市場価格での売却となるため競売より比較的高値で売却できる可能性が高いです。
ここに来る前にエクセルで引いた売却プランを頭に浮かべる。
幸か不幸か向こうもそんなに知識がないから、それ以上はなにも聞かれなかった。代わりに、丸川さんにジロリと睨まれる。
うまくやるなんて口が裂けても言えず、とりあえずお茶を濁した。自信なんてカケラもない。っていうかなんなんだこれ、明らかにこんなひよっこの新人が担当する案件じゃないよな?!
そう思うのに、幸子さんは、頼もしいわぁ、なんて言いながら満面の笑みを浮かべている。
本当なら今日撮りたいところだったけど、それはこの部屋に入ったときから諦めていた。室内は、決して汚れているわけではなかったが、とにかく物が多くて雑然としている。リビングでコレなんだから、他の部屋の散らかり具合はちょっと想像したくない。
丸川さんが黙ってうなずくのを確認して、ではまた土曜日に……と席を立ちかける僕を、幸子さんが呼び止める。
「ね!」とニッコリされると断れなくなってしまう。
丸川さんは相変わらずの仏頂面だったけど、妻の言動には口出ししないタイプの人らしく、黙って座っているばかりだった。
で、なにが出てくるのかと思いきや、幸子さんは電話機の横の書棚をガサコソやっている。しばらくして、ジャーンとばかりに取り出したのは、ピザ屋のチラシ……! ここのピザ、食べてみたかったのよね〜なんて言いながら。
う、嘘だろ、お金ないんじゃないのか。
彼らがローンを返済できずにいた理由を垣間見たような気がして、僕はひとり震え上がった。
もしかしてこの夫婦、会社経営がうまくいっていたころの勘定グセがしみついたままなのでは……?! 前途多難な予感しかしない……!
◆
週末、再び部屋に行くと、幸子さんは買い物に出かけているらしく不在だった。丸川さんは、僕を黙って部屋に入れたきり、背中を丸めて無言でアルバムの整理をしている。僕は勝手に座るわけにもいかず、突っ立ったまま聞いた。
丸川さんはチラッと僕に視線を送り、
と短く言った。勝手に行って、勝手に撮れということらしい。僕は会釈して部屋を出ると、廊下の突き当たりのドアを開けた。
きっと頑張って片付けてくれたのだろう、部屋の中はかなり整頓されていた。でも、当然ながら家具なんかはそのままだから、物を置いたままいかにうまくスッキリ見せるかがカギになりそうだ。
スマホを取り出して、一枚写真を撮ってみる。初歩的ミス。逆光だ。今度は窓のほうから一枚。きれいには撮れるものの、背後から太陽がさしこんでいるため自分の影が思いっきり映り込む。
困ったなぁ、と頭をかきながら、今度は部屋の中央から。どうにも雑然として、部屋の広さが伝わらない。少し上のアングルから撮ればマシになるだろうかと、書斎机の椅子を引き出して部屋の隅に据える。上に乗ってシャッターを切ってみた。部屋の広さはわかるけど、生活用品がものすごく目立ってしまう。
ならばと今度は床に寝転がった。一枚撮って確認する。
お、意外といい感じかもしれない。
今度は寝る向きを変えてもう一枚……。
突然、お尻に鈍い痛みが走り、僕は悲鳴を上げた。
涙目で目をやると、部屋のドアがお尻にめり込んでいる。振り仰げば、ドアノブに手をかけたまま固まっていたのは、丸川さんだった。そのまま3秒ほどお互い見つめ合ったのち、丸川さんは思いっきり吹き出した。
クックッと笑いながら、部屋に一歩入って手を貸してくれるので、ようやくお礼を言いつつ起き上がった。丸川さんの腕はガリガリに痩せて、手は少し冷たい。
時計を見て驚いた。もう30分も経っている。
口角を上げて部屋を出ていくもんだから、慌てて追いかける。
リビングに入ると、今度はダイニングテーブルの席へ座るよう促される。
丸川さんが冷水筒の麦茶をグラスに注いでいる間に、僕は作ったばかりのチラシのサンプルをカバンから取り出した。
会社指定のテンプレートを使っただけのものだったのに、丸川さんはなんだか感慨深そうな表情を浮かべた。
呟いて、僕の顔を見る。
まだまだやらないといけないことは山積みだったが、しみじみ言われると照れ臭くて、僕は、いえいえ、なんて言いながら麦茶を一口飲んだ。
ふと、テーブルの上に広げられたアルバムが目に入る。立派な工場らしき建物の前で、社員さんが10人ほど並んでいる古い写真が貼ってあった。
あー、あの、絶縁状態という。という言葉は辛うじて呑み込む。
もう一枚ページをめくると、見開きいっぱいが、息子さんと思しき人の写真で埋め尽くされている。細い小枝のような指で、丸川さんは写真を次々と指差した。
「でした」、というのがなんだか切なくて、僕は黙り込んだ。
そんな家族の終わり方もあるのか……。僕は写真の息子さんの笑顔を見つめた。
さらりと言われて、ウッと言葉に詰まる。
たぶん、あるんですけど!
そんな僕の心の中を見透かすように、丸川さんは、隠さなくていいんですよと笑った。
テーブルに額を押し付けんばかりにして深々と頭を下げる丸川さん。
僕も慌ててお辞儀する。
顔を上げると、リビングのドアのところで、幸子さんがけげんな顔をしていた。
慌てて立ち上がって挨拶しようとすると、幸子さんは、いいのよ座ってて、と言いながら、両手に持っていたスーパーの袋をどかっとテーブルの上に置いた。
うわ〜、すごい豪華〜、って、違うんだよっ!!
僕は、いろいろ言いたい気持ちをぐっとこらえてカバンに手をやったついでに、もう一つこの夫婦に伝えなければいけないことがあったのを思い出す。
手帳を取り出して、「丸川家にやってもらうことリスト」を確認する僕。
チェックリストをひとり指差し確認して顔を上げると、ぽかんとした顔の夫婦と目が合う。
幸子さんが、ゆるりと首をかしげる。
丸川さんのほうを見たが、無言なだけで幸子さんと理解度は変わらなさそうな気がする。そういえばこの人たち、ずっとここに住んでるんだっけ……。
恐る恐る尋ねたとたんに、大きくうなずくふたり。
聞かなきゃよかったと後悔しながら、僕はしぶしぶスマホを取り出した。
検索エンジンに、【引っ越し 見積もり】と打ち込み、サイトから各社に一括で見積もり依頼をする。ほどなくして、大手の引っ越し会社から電話がかかってきた。
見積もりの訪問日を決めるのかと思いきや、今この地域の担当者がちょうど近くにいるので、すぐに来ることができるという。丸川夫婦に次を任せるのは無理だと判断した僕は、さっそく訪問をお願いした。
30分ほどしてやって来たのは、僕と同じ年頃で、メガネをかけたひょろひょろの青年だった。僕だけには言われたくない、とか言われそうだけど、小鹿のようにオドオドしている。
幸子さんとリビングを出て行って、ダイニングテーブルに再び戻って来たメガネくんは、ぷるぷる震えながら書類にペンを走らせ、こんな感じでいかがでしょう、と見積もりを見せた。丸川夫妻は、「へー」みたいな感じで眺めているが、僕は思わず顔をしかめてしまう。想定よりずいぶん高い気がしたからだ。
メガネくんはいっそう手をぷるぷるさせながら、グッズ販売の行にバツをつけた。ほかにムダなものが入っていないか、僕は見積もりに目を走らせる。
全体を見ると、けっこうこの金額が大きい気がした。でも、このふたりの様子と、物の多さから考えると、自分で荷造りできるとは到底思えない。
僕は顔を上げ、メガネくんに見積もりを突き返しながらニコリと笑って言った。
*
メガネくんが帰って行った後、丸川さんが感心した声を出した。こんなに安くなるなんて、と当初よりもかなり金額が下がった見積書を指差す。
ニコニコ言われて、今日は僕もおとなしく食卓に座った。契約を取ったわけでもなんでもないのに、入社して以来一番と言えるくらい、充実した一日だった気がした。
幸子さんは、んもう、と口を尖らせ、僕の前にあなご弁当を置いた。僕はぎっしり詰まったあなごを、幸子さんはカニをそれぞれつつきながら、僕らは夜遅くまで他愛もない話をした。このおだやかな時間が、ずっと続けばいいのにな。そう思ったけれど、僕の願いはあっけなくガラガラと崩れ去るのだった。
◆
その日は朝から顧客対応をして、午後からは事務作業をする予定だった。丸川家へは、あれからも何度か行って写真を撮り、チラシも完成した。会社のホームページの掲載準備も整って、さてこれから家を売り出そうという頃合い。あとは書類作成もろもろを、午後の時間を使ってやろう……そう思っていたとき、幸子さんから電話があった。
不安そうな声で僕の名前を呼んだきり、黙ってしまう。
倒れた……?
さーっと、頭の先から血の気が引いていく。
電話を切るや否や、病院へ駆けつけた。6人部屋の窓際のベッドを囲むように引かれたカーテンの隙間から滑り込むと、げっそりとやつれた丸川さんが、ベッドに横たわっていた。
前から細いな、少食だな、とは思っていたけど。まさか、本当に病気だったなんて。
ピクリ、とまぶたが動き、目がうっすらと開く。
必死に呼びかけた。うつろな瞳がこちらへ動き、浅黒い唇がゆっくりと動く。
耳を丸川さんの顔へ近づけると、吐息混じりの苦しげな声が鼓膜を揺らした。
僕の呼びかけもむなしく、丸川さんは目を閉じた。再び眠ってしまったらしいその横で、呆然と立ち尽くす。
振り向けば、幸子さんが立っていた。
幸子さんは、きゅっと唇を噛み、僕を手招きした。そのまま談話室へ連れ出される。
椅子に座るなり、幸子さんの目に涙があふれる。
ハンカチに顔を押し付け嗚咽を漏らし始める幸子さんを、僕は黙って見つめた。
そんな。ただでさえ借金まみれなのに。
これ以上、この夫婦からなにを奪おうっていうんだ。
握った両手の拳を膝の上に置いて奥歯を噛み締める。
なんとしてでも、早くふたりの生活をなんとかしてあげないと。
でも、どうやって? 僕にそんなことができるだろうか。
誰か助けて。
誰か——?
◆
数日後、例のおでん屋『割烹 おた恵』に、僕と田崎さんはいた。ただならぬ様子を察してか、今日はテーブル席。田崎さんは話を聞き、資料を見るなり、盛大に顔を曇らせた。
注文したおでんが、僕らの間でゆっくりと冷めていく。
田崎さんの言葉に、思わず両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった。ドンと皿が小さく跳ね、後ろで椅子が床に転がる。
拳を握る。脳裏をよぎるのは、丸川さんの笑顔、そして弱々しいベッドでの姿……。
田崎さんが、僕を見上げて、ふっと微笑む。
田崎さんの言葉に、心からホッとした。張り詰めていたものが緩む。横倒しになった椅子を持ち上げて、半ば崩れるように座りなおす。
団体信用生命保険とは略して「団信」と呼ばれ、住宅ローン申請者に万一のことがあった場合に、住宅ローンの残債を返済する保険のことを指します。この契約は、ローンの貸出者と保険会社との間で締結されるもので、住宅ローン契約の際にその加入が必要条件とされることがあります。
そんなこと考えてもみなかった。僕は、慌ててカバンから資料を取り出す。でも、どうやらどこにもそんな表記はない。
田崎さんは、僕の手からファイルを取り上げ、しばらく文字を目で追ってから、「あー」と天を仰いだ。
フラット35とは、住宅ローンの1つで民間金融機関と住宅金融支援機構が連携して提供する長期固定金利を指します。金利変動がないため、長期にわたる返済計画が立てやすく、独自の技術基準で物件検査を実施しているため品質に対する安心感もあります。
家族も部屋も失って、代わりに借金が残るなんて。
サービサーとは、金銭債権の回収・管理業務を営業する者のことを指し、債権回収会社とも呼ばれます。不動産取引に関する金銭債権の回収・管理業務も弁護士またはサービサーでなければ行なうことはできません。
そんなことも必要なのか……。道のりが遠すぎる……。なんだか目眩がしてきた。
黙り込む僕を憐れんでか、田崎さんは、ヨシ、と明るい声を出した。
ビールを2杯と、追加のおでんを注文する田崎さん。
カチン、とジョッキで乾杯して、できたてのおでんを口に運んだ。
ほかほかの卵。ふかふかの厚揚げ。どれもじんわりと胸に沁みた。
◆
で、そのわずか一週間後。
僕は、訪問した債権回収会社の会議室で、ひたすらあの日の田崎さんを呪っていた。
隣の席では、幸子さんが小さく縮こまっている。
会議机を挟んだ向かい側には、田崎さんに紹介されたサービサーの金本さんが、僕の作った配分案に目を通している。初めこそ柔和な表情を浮かべて、「話は聞いてるよ、どうぞどうぞ」みたいな感じだったのに。あれよあれよと態度が豹変し、今、金本さんの眉間には深いシワが刻まれていた。
やがて資料から目を上げて、金本さんが僕をじろりと睨んだ。
僕が答えた瞬間、金本さんは、資料をバサリと机の上に置いた。
幸子さんがビクッと体を揺らす。
僕が机に頭をこすりつけるようにして必死に懇願すると、金本さんは資料の一つを冷たく指差した。
指されたところには、「引っ越し代」の文字が踊っている。
金本さんがギロリと僕らをひと睨みする。幸子さんは、とうとうハンカチを目頭に当て肩を震わせ始めた。しかし金本さんは構う様子もなく、なおも淡々と続ける。
金本さんは突然フフフと口の中で笑った後、真顔になって冷たい声で言った。
僕は返す言葉もなく、口をつぐんだ。田崎さんの知り合いだからって、ちょっと甘く見ていた感は否めない。ここに来さえすればなんとかなる、向こうがなんとかしてくれる、そういう甘えが確かにあった。
隣では、幸子さんがぐすぐすと鼻を鳴らしている。万事休す。僕は唇を噛み、拳に力を入れた——。
ガチャ。
と、そのとき。会議室の扉が開いた。
視線を向けた先に見慣れた笑顔があったので、僕はぽかんと口を開けた。
金本さんの表情が、少しだけ和らぐ。
これが順調に見えますか?!
とは思ったものの、幸子さんとは反対側の僕の隣の席を陣取って軽い調子で聞くもんだから、場の空気が一気に緩んだ。
田崎さんは、机の上に散らばった配分案を見て、フムと顎に手を当てた。そして、金本さんに笑顔を向ける。
当たり前のことをサラリと言うので、場の空気が一瞬止まる。
金本さんのセリフに、人差し指を立てて、「根性見せようにも先立つものは必要だろ?」と明るく言い放つ田崎さん。
金本さんは、しぱしぱと数回瞬きを繰り返し、むむ、と口を引き結ぶ。
田崎さんにニッコリされて、僕は背筋を伸ばした。
隣で幸子さんが一段と大きな音で鼻をすすり、声もなく頭を下げた。
幸子さんに続いて、僕も再び机に額をこすりつけると、
田崎さんの柔らかな声の後に、金本さんの盛大なため息が聞こえた。
やがて少し間を置いて、低い声で言う。
大声で叫ぶようにして、三たび深々とお辞儀をすると、田崎さんが隣で微笑む気配がした。
<ワンポイント解説>
実は配分案を提出する際にサービサー側に詰められるのはあるあるな話です。物件を売却しても全ての債権を回収できない任意売却で、引越しや契約にかかる諸費用に加え、仲介会社側の仲介手数料などを差し引かれたら怒るのも納得できます。
だからと言って競売になると、さらに回収できる金額が少なることに加え時間もかかるので、どこかで落とし所を作らなけらばいけない。。。配分案に関するこのやりとりはその非常にリアルなやりとりが忠実に表現されているのです。
◆
さあ、あとは物件が売れるのを待つだけ……なんだけど、僕はそわそわと落ち着かない日々を過ごしていた。別のお客さんの対応をしていても、丸川夫婦の顔がチラつく。ネット広告に問い合わせが来ていないか気になって、会社のホームページに数時間おきにログインしてしまう……。
固い声にビクッと体を揺らして振り返ると、先輩が後ろに立っていた。そもそもの根源。この物件を僕に振ってきた、あの。
誰のせいですかっ! と言いたいのを辛うじてこらえる。
すると先輩は、手に持ったインスタントコーヒーをずずっとすすった。
ぱちぱちと瞬きをして、僕は固まった。
「基本だろ?」と鼻を鳴らす先輩。
弾かれたように立ち上がって印刷機のほうへ突進しかけると、肩をつかまれる。
そう言って部屋の反対側の壁のほうへ連れて行かれた。大型印刷機そっくりの機械が置いてある。
先輩はコーヒーを棚の上に置くと、
先輩は僕の横に立って、使い方を指南してくれた。
基本的にはボタン操作なので難しくはないけれど、紙を置く向きにちょっとコツが必要なようだった。でも、一度読み込ませてしまえば、レーザープリンタよりずっと効率よくチラシが刷り上がる。
ひらひらと手を振って、事務所から出て行く先輩に、僕は深々と頭を下げた。
こんなことになったのは先輩のせい、ではあるんだけど、でもこの仕事を担当したからこそ感じるやりがいもあることは確かなんだ——。
*
夜。
振り返ると、柱の影に田崎さんが立っていて、僕は思わず悲鳴を上げた。
僕は人気(ひとけ)のない営業所を見回す。スマホは後ろのデスクに置きっぱなしだった。
差し出されたコンビニのレジ袋を、ありがたく受け取る。中には、カップ麺がふたつ入っていた。そういえば夕飯を食べ損ねていたことを思い出す。
カップ麺にお湯をそそぎ、自分の席に座ってできあがるのを待っていると、田崎さんが輪転機を指差して聞いた。
ぶつぶつ呟いていると、パキッと割り箸を割りながら、田崎さんがおだやかな声で言った。
目をぱちぱちさせる僕に、微笑みかける。
促されて、僕も割り箸を割った。仕事の合間に食べるカップ麺って、なんでこう美味いんだろう。そのままふたりしてしばらく無言で麺をすすった。
空になったカップ麺の容器を前に、腹をさすりながら田崎さんが言う。
言いながら、僕はメーラーを立ち上げた。あれ、メールが来てる。さっきはなかったのに。こんな遅くに、一体誰……。
僕は、パソコンのモニターを田崎さんのほうへ向けた。
立ち上がり、モニターの文字を追った田崎さんに、バシッと背中を叩かれる。
【物件No.10038 セントラルハイツ川久保801号室 内見のお願い】
お客さんからの問い合わせメール。
ついに……、ついに、丸川夫婦の物件に興味を持つ人が現れたのだ……!
◆
次の日のお昼どき。
受話器を耳に押しつけ、頭を下げながら、僕は画面をスクロールしてメール本文を見返していた。
メールで問い合わせをしてきたのは、篠里賢治(しのさとけんじ)さん、50代男性。現住所は、岐阜県になっている。
受話器の向こうで一瞬なにかをためらったような気配の後、意を決したように篠里さんは聞いた。
どうしよう、正直に言ってしまおうか。ネットでちょっと調べれば、わかってしまうことではある。でも、せっかく買ってくれそうな人が現れたのに、チャンスを不意にしたくない。任意売却物件は、市場より安く出回ることが多い一方で、金融機関が絡んでくるから嫌がる人もいると聞くし……。
ぐるぐる考えながら言い淀んでいると、篠里さんが、恐る恐るといった調子で言った。
あ、バレたか……。
いわくつきはいわくつきなんですけども……!
篠里さんはあっけらかんと言い放つ。そして、満足げな声色で続けた。
もうこれ以上なにも聞かれたくない僕は、そわそわと話を進める。
来週の月曜日、ちょうどまた出張で東京に出てくるというので、篠里さんとは直接、セントラルハイツ川久保で待ち合わせることになった。
電話を切って、すぐに立ち上がる。丸川夫妻に、一刻も早く知らせなきゃ。丸川さんとは病院で、幸子さんとはサービサーで、先月会ったきりだ。幸子さんの意気消沈した姿を思い出す。最近家に行けてなかったけれど、旦那さんが急に倒れて心細い思いをしていたはずだ。
今日は僕が夕飯を買っていってあげよう。そう思って、デパ地下のスーパーでお惣菜を買い込む。いつの間にか、街はハロウィンの装いだ。なんだか夏くらいから時の流れが一気に早くなった気がする。両手にスーパーの袋をぶら下げて、オレンジに彩られた街並みを通り抜け、僕は丸川さん宅のインターホンを押した。
はいはーい、と玄関先に現れた幸子さんは、驚くほど明るかった。
空元気という感じでもない。僕は安心半分、拍子抜け半分で靴を脱いで、いつものようにリビングへ入った。まだ丸川さんは入院中だから、この家に幸子さん以外に人はいないはず……と思っていたのに。
僕がいつも座る椅子に、ニコニコ腰掛けていたのは田崎さんだった。ほんと神出鬼没だなこの人!
幸子さんが湯呑みをお盆に乗せて持ってくる。
田崎さんは、悪びれる様子もなくニッコリ笑う。
ぱたぱたと右手を動かす。自分で言っちゃったよこの人。
すると、そばで聞いていた幸子さんが、引っ越し? と小さな声でつぶやいた。
僕は、エヘンと咳払いして、幸子さんに向き直る。
僕の言葉を聞いた瞬間、幸子さんが、両方の手のひらで口を覆う。
絶対買ってもらえるように。
僕がそう強調すると、幸子さんの両目に、みるみる涙が盛り上がる。
駆け寄ってきて、ぎゅーっと抱きしめられ、僕はアワアワしてしまう。恐る恐るその背中に手を添えて、照れ隠しに言った。
なかなか離れない幸子さんの肩越しに、口角を上げた田崎さんと目が合った。
その日、引っ越し業者から届いた段ボールに書斎のものを梱包する作業をしてから、僕らは田崎さんが持ちこんだビールで乾杯した。僕が買ってきたちょっといいお惣菜を、幸子さんはもりもりと口に運んだ。どうやら、丸川さんが入院してからというもの、ほとんど眠れず、ほとんど食べずの生活だったらしい。
もっとケアしてあげるべきだったと反省して、それからは朝から晩まで丸川家に入り浸って片付けを手伝った。田崎さんもよっぽど暇らしく、毎日付き合ってくれている。
数日で一通り引越しまでに使わなさそうなものの梱包を終え、次は掃除だ。田崎さんが、壁についた黒い傷跡をゴシゴシやりながら言う。
田崎さんが手を止めてこちらを見る。
そんなことを言われても今さらすぎる。仕方ないじゃないか、ちょっとでも部屋を良く見せたいのは当たり前だし……。
と、そのとき、スマホが鳴り始め、僕は床にしゃがんだまま、ポケットを探った。画面には、篠里さんの番号が表示されている。
外から電話しているらしく、バックに雑音が聞こえる。なんだか嫌な予感を覚えつつ、僕は、はい、と返事した。
一方的に暗くなったスマホ画面を呆然と眺める。
ちょっと待て。11月5日……?!
弾かれたように立ち上がる。リビングに駆け込んで、置きっぱなしだったバインダーを開き、資料をめくって、指先で契約書類の文字を追う。
追いかけてきた田崎さんに、書類を見せる。
田崎さんの表情が凍った。
つまり、篠里さんと契約に持ち込めなければ、この家と丸川夫妻は、万事休す。部屋が二束三文で買い叩かれ、当然ながら借金も返せない。
青白い顔で見つめ合い、やがて田崎さんが口を開いた。
つまり、当日、支払いと契約、引っ越しまで、全部やってしまうということか……。
田崎さんにそんな権限があるのかどうかはナゾだったが、とにかく僕は、藁にもすがる思いで頷いた。
◆
11月5日。運命の日。
僕と田崎さんがリビングに入っていくと、丸川さんが座っていて、思わず声を上げてしまった。前にも増してやつれた感じがするが、丸川さんは笑顔を見せる。
言いながら、ゆっくりした動作で立ち上がる。
丸川さんは、僕らに向かって、深々と頭を下げた。
さぁいよいよだと背筋を正したのを見計らったように、玄関のベルが鳴った。
丸川夫婦、田崎さん、僕の4人が玄関で整列して出迎えると、篠里さんはかなり戸惑った表情を見せた。しまった、ちょっと引かれたかな。
気を取り直して、さっそく部屋を見てもらうことにする。
部屋に入るなり、篠里さんはカバンからチラシを取り出した。僕が作ったやつだ。それを左手に持ち、実物とチラシの写真を交互に見比べる。
促されて、続いて寝室へ。再び険しい顔で、部屋を眺める篠里さん。
そんな細かいところまで見ているなんて。画像ソフトでちょちょいと消しました、とは言えず、あたりに漂う気まずい空気……。
冷え切った雰囲気のまま、キッチンへ案内する。
篠里さんが、開口一番、蛍光灯が一本だけ据え付けられた天井を見上げる。
確かに、チラシを作るときには、かなり明るく見えるよう調整した。僕は、言い訳することもできず立ち尽くす。
すると、背後から田崎さんが穏やかに言った。
確かに、心象の悪いまま、この場にいつまでも止まる(とどまる)のは良くない。僕らは急いでダイニングを経由して、リビングのソファに腰を落ち着けた。
恐る恐る聞けば、篠里さんは、うん、と頷いて、
幸子さんが頷いて、早口で言う。
その言葉を遮って、篠里さんは続けた。
そこだけ。
場が凍りつく。
チラシの寝室の写真を指差して、
バレてる。僕は冷や汗を垂らしながら、ごくりと生唾を呑み込んだ。
沈黙ののち、はあ、とため息をついて、篠里さんは僕らの顔を見回した。
ようやく気づく。良かれと思ってしたことで、騙すつもりはなかったとしても、受け取った人がそう感じてしまったらそれは立派な詐欺なんだ。
どうしよう、僕のせいで、丸川夫婦が路頭に迷ってしまう。どうしよう、どうしよう……!
それまで黙っていた丸川さんが声を上げる。
売主のあまりの必死さに、篠里さんは怯えた表情を浮かべた。「とにかく、今日はこれにて……」と席を立つ。
僕は、その前に必死で膝をつくと、勢いよく床にひれ伏した。
篠里さんが、困惑したような声を出す。
僕は、ほとんど悲鳴をあげるように声を振り絞った。
しん、と部屋に静寂が満ちた。床の木目に、汗がぱたぱたと垂れる音が妙に響く。
やがて、篠里さんが、静かに口を開いた。
じわっと視界がにじむ。身体中が熱くなる。
幸子さんがおいおいと泣き出した。丸川さんも、ぐすっと鼻を鳴らす。
田崎さんが、僕の後ろで頭を下げる気配がした。
顔を上げると、田崎さんは静かに首を振った。
*
再びソファに座り直した僕ら。この物件が競売寸前だということを理解した篠里さんは、盛大にため息をついた。
正直言ってそうなんだけど、篠里さんからしてみれば、なにひとつ状況が良くなったわけではない。どう説得したらいいものかと思わず下を向いたところへ、田崎さんが落ち着いた声で言った。
田崎さんは、スマホを操作して画面を見せた。「セントラルハイツ川久保 605」とある。
篠里さんが目を丸くする。僕も全く同じ気持ちだ。6階の部屋。そんなところにまで気が回っていなかった。
ぜ、全然知らなかった……!
考え込む篠里さんに、少し声色を変えた田崎さんがずずいと膝を寄せた。
篠里さんが、ハッとした表情で田崎さんを見る。
な、なるほど。僕は思わずごくりと喉を鳴らした。
一方の篠里さんは、ソファーに背中を落ち着けて腕組みしている。そのまま目を閉じて、しばらく悩んだのち、やがてぽつりと言った。
目を見開く僕の顔を見て、いたずらっぽく笑う。
よ、よかった……!
心の奥が熱くなり、今度は別の涙で視界がにじむ。
僕は黙って、深々と頭を下げた。
◆
一週間後。朝礼で所長に思いっきり肩を叩かれ、変な声を出してしまった。デジャヴだ……。でも、心なしか、営業所を包む空気は前とは違って温かい。
ぱちぱちぱち。
今度はいつかと違って、みんな笑顔で拍手してくれた。
拍手がおさまると、所長が大きな声で続けた。
わっ! と営業所が再び割れんばかりの拍手に包まれる。
そう、10月から12月までの第3四半期の営業成績が同期の中でトップだったということで、僕は小さな賞をもらうことになったのだ。
昨日、人事部からメールが来たときにはなにかの間違いじゃないかと思ったけれど、ようやく現実として受け入れることができた。
「おめでとう!」「よくやった!」「また頑張れよ!」と口々に肩を叩かれながら席へ戻って一息つく。
嬉しい。嬉しいんだけど、この表彰は僕ひとりの力で掴んだものじゃない。田崎さんがいなかったら、絶対に失敗していた。それは間違いない……。
と、そのとき、背後から顔の前に、缶コーヒーが差し出された。
驚いて振り返れば、そこに立っていたのは、例の先輩だった。
アツアツの缶を受け取ると、先輩は隣の席に腰掛ける。
あの後、田崎さんと丸川さんとで部屋を引き払う作業をしてもらい、その間に僕と幸子さん、篠里さんは、契約のために営業所へ向かった。マンションの下に待たせておいた引っ越しトラックで荷物を運ぶのとほぼ同時進行で契約をするという強行っぷりだった。
それからすぐに部屋へとんぼ帰りして掃除して、(あの壁の傷も苦労してなんとか消した)、その足で丸川家の新居へ行って。そのまま開梱作業をして、解放されたのは深夜だった。
ほっとはしたけど、何度も通った丸川家に行くのもこれで最後なのかと思うと、拍子抜けしたような気分になったのも事実だ。なんだか寂しい気もするし、丸川夫婦との出会いを思い返せば、大変なこともたくさんあったけれど、楽しかったような気もしてくるから不思議だ……。
ふいに、先輩がぽつりと言った。
隣に視線を向けると、真剣な眼差しにぶつかる。
僕は慌てて、先輩に体を向けて続けた。
先輩は、一瞬目を丸くして、きゅっと口を尖らせると、自分の分の缶コーヒーをぐいっと飲み干した。そして、
と、僕のデスクに空になった缶コーヒーをトンと置く。
そして、「じゃ」と手を挙げると、先輩は事務室から出て行ってしまった。
ぽかんとその背中を追っていると、ポケットの中でスマホが鳴った。
あれからほどなくして、幸子さんは新しい仕事を見つけたのだ。
音質が変わる。スピーカー通話に切り替えたらしい。
丸川さんは、静かに、そして嬉しそうに言った。
でももうムダ使いしないでくださいね、と付け足すと、真面目な声で「わかりました」と返ってきて笑ってしまう。
名残惜しく電話を切る。さっきもらった缶コーヒーを開ける。
一期一会。そんな言葉を思い出した。
<ワンポイント解説>
無理やり契約から引き渡しまでその日でやり切る少し強引ともいえるシーン、まず大手の会社なら絶対やらないでしょうね。
基本的には買主さんが内見して、重要事項説明をしてそれに同意してもらい、契約をして、決済までに引越して家を空にして、空の状態をもう一度見てもらって、実際に引き渡す。これら全て基本的に別日にやるため、1ヶ月半〜2ヶ月程度はかかるものです。
買うかどうかもわからない状態で引越しの業者まで待機させちゃうなんて普通はありえない話ですが、法律的にはセーフですし、即引き渡し可の契約もありますが、それの究極系とも言えます。
◆
師走はその名の通り走るように過ぎ、あっという間に年末。僕は、納会会場のステージ上でスポットライトを浴びていた。
ホテルの広い宴会場には、料理が乗った大きな円卓が所狭しと並んでいる。ほとんどの社員は営業所からリモート参加。この会場に来ることができるのは、本社の人と営業所長、そして各賞の受賞者だけだ。だから知り合いはほとんどいない。
僕は、進行のために動き回っている総務部や業務担当の人たちをソワソワと見回した。田崎さんとはあれから一度も会っていない。つい姿を探すけれど、目が届く範囲には見当たらなかった。今日くらいは会えるかなと思っていたのに、年末年始は社内外のイベントが多いから、今日は別の場所にいるのかもしれないな……。
名前を呼ばれて、ビクッと体を揺らし、恐る恐る進み出る。他の受賞者の先輩たちは、入社してから一度は名前を聞いたことがあるような凄腕セールスマンばかりだ。そんな人たちが、僕のために温かな拍手を送ってくれる。夢でも見ているような気持ちで、社長の前に立った。
無理です!
というセリフが喉まで出かかった。危ない危ない。
黙って深々と頭を下げ、受け取った賞状に目を落とす。墨字で自分の名前が書かれているのを見て、ようやく実感がわいてきた。正直、喜びというより、恐怖に近い。
表彰の連絡を受けたときも思ったけど、この賞はイチから自分で掴んだものじゃない。僕も確かに努力はしたけど、やっぱり田崎さんの助言やアドバイスが大きかった。実力じゃなくて、運が良かっただけ。新人賞なんてとんでもないし、すでに来月以降が不安で仕方ない。田崎さんを頼ろうにも、こんな風に業務部の仕事が忙しい時期は難しいだろうし、なによりいい加減自分で頑張らないと、ダメな気がする……。
司会の人の言葉に、賞状を軽く曲げて片手に持ち直した。さっさと表彰式を終わらせて、一刻も早くステージを下りたい。早く進めてほしい一心で顔を上げると、社長の後ろから、花束贈呈役の社員が姿を現す。
その顔を見て、僕は目を瞬かせた。
小さなブーケを持って微笑んでいたのは……、田崎さん、だった。
あれ? MVPの人は??
頑張ってとか、また飲みに行こうとか、他にもなにか言われた気がするけど、僕はぼんやりとお礼を言って、花を受け取るだけで精一杯だった。
MVP受賞者。え?! まさか、田崎さんが?!
表彰式が終わり、ようやく我に返って会場中を探したが、もう田崎さんの姿はどこにもなかった。
宴会もそこそこに営業所に戻る。みんなの祝福の言葉を適当にあしらって、パソコンで会社の社員用掲示板にログインした。
今まで自分には縁遠いものだと思って見たこともなかった、「歴代受賞者一覧」というフォルダを開いて、思わず「うわっ」と声を上げてしまった。
田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治。
去年のありとあらゆる受賞者の欄に、「田崎幸治」の名前がビッシリと並んでいた。
思わずスマホを取り出し、田崎さんに電話する。が、繋がらない。
イライラとかけ直しながら、その前年の受賞者ページにジャンプする。
田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治。
電話は全然繋がらない。その前年、さらに前年、とページをめくる。
田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治、田崎幸治。
わかったことはただひとつ。ここ数年のほとんどの賞を、田崎さんが総ナメにしているということだった。
懲りずに今度は本社にかけてみる。
いちおう事務方なのに、そんなこと許されるのか。僕は呆然と電話を切る。
あの飲み屋なら会えるだろうか。田崎さんと飲んだおでんの店。
カバンを掴むと弾かれたように立ち上がり、『割烹 おた恵』へ向かった。
ビジネス街は、気忙しい歳末の空気を漂わせている。店があるのはこのビル群のすぐ先のエリアだ。店に行くとき以外、このあたりにはめったに立ち入らない。他の大手不動産会社の自社ビルが密集しているから、なんとなくここは自分のテリトリーじゃないと思ってしまう……。
寒風に白い息を漏らしながら先を急いでいた僕は、ふと、見慣れた後ろ姿が見えた気がして立ち止まった。
田崎さんだ。目の前のビルから出てきたのは、間違いなく田崎さんだった。大声で呼びかけようとして、すぐに言葉を呑み込む。
田崎さんのすぐ後ろに続いて、ここの会社の社員らしい人が数人、ぞろぞろと出てきたのだ。田崎さんが向き直ると、一番偉そうな人が進み出て、固い握手をした。互いに微笑んで二言三言、言葉を交わすと、他の社員が一斉にお辞儀する。
ただ営業しに訪ねて来たにしては、なんだか異様な光景だった。そもそも田崎さんは営業マンじゃない。じゃあ一体、ここになにをしに来たのだろう——。
不思議に思いながらさらに数歩近づいて、ビルの入り口に書かれている社名を見るや否や、頭から冷や水を浴びせられたような気分で立ち尽くした。
『第一不動産販売』
それは、業界最大手の不動産会社の名前だった。
——僕、社内でも嫌われてるからさ。
ふたりで飲んだとき、田崎さんが言った言葉が頭の中によみがえる。
まさか。まさか、田崎さん。
足に根が張ったようにその場から動けなくなり、僕はただただ田崎さんの姿を見送った。気温がぐんと下がったような気がする。小さくなる後ろ姿は、そっくりそのまま、僕らの心の距離を表すかのようだった。